さて本題です。
立派な皇帝のあとに、自分のことを書くとは我ながらいい度胸だ。(わら
これは旧ブログの初回の続きというか、その後なのです。
その時に言ったことを簡単にまとめると、
「死」というのは、別れ(あるいは挫折っぽいことでもいいけど)というようなものの総体で、昔はこれがとても怖かったけれども、最近は慣れてきて、それほど怖いとも思わなくなってきた。
というようなことです。
しかし、ごく最近気がついたのです。嘘でした。気のせいでした。
なぜ怖くなかったかというと、別れを怖がるような「対象」がなかっただけなのだ。
ではなぜなかったのかというと、それは、たまたまではなく、そのように生きていたからなのです。
例えば、自分でやりたいことというのははっきりしていて、だから、そのためにそれなりに(まさに「それなりに」)やってきたわけです。
友人はいるけど、たまに会う程度。愛人はいない。(笑)
結婚なんかは、まあ相手がいないと出来ないけれども、基本的にうまくいかないと思っているから、したいとかしようとか思わない。そもそも相手を探すという努力をする気がない。
もしすることになるとしても、たまたま、それもかなり薄い可能性でのたまたまでしかあり得ない。
それから、ネットだと、多くの人とたびたび関わりますが、で、結構あちこちに仲のいい人、しばしば(あるいは時々)対話する人はいますが、大抵は顔も知らないし、本名も知らない。
まあ、それでも対話が成り立つのがネットのいいところだし、利害とか打算とかそういったものが(大抵は)関係なく対話できるのがネットだし、年齢であるとか(会社などでの)立場やだとか住んでいる場所とかも越えて対話できるのがネットなのだ。
ついでにいうとオフ会なんかもしたことがない。
要するに人間関係が希薄なのだ。
それはつまり特別な感情を持たずに済むということなのだ。
誰かを憎んだり憎まれたり、ひどく嫌いになったり嫌われたり、あるいはとても好きになったりすることがない。
ここで関わる人というのは、自分にとっては、大抵の場合、普通に好きな人であり、一部は、ちょっと嫌だなという人という程度なのだ。
普通はネットなら喧嘩したって知れたもの。
なぜそうしているかというとそれは簡単。
(1)傷つくのが怖いから。
大失恋なんてしたら下手をすれば何年も立ち直れない。(爆)
まあ、大失敗も同様です。
(2) これも(1)と大差ないけれども、激しい嫌悪感だとか感情的な対立などは酷く疲弊します。それを避けるため。
それでこれらの人たちとの「別れ」というのはどうか。
ネットの場合だと、時々は(ネット上で)「会える」(対話できる)わけです。
会えなくなってしまっても、薄い関わりならば「別れ」もそれほどにはつらいものではないでしょう。
こういう場合、「終わり」についてもさほど深刻に考えなくていい。
だから特別怖くない。そういうことだったのです。
しかし、もし深く関わるとするとどうなるか。
細かなことは省略しますが(この期に及んで・・)、私の場合、ある時期に「別れ」を予感してしまうのです。
本当は予感でもなんでもなく(というよりも最初から予感という表現は変だけど)、単に自分の性質に過ぎないのかもしれないけれども、分かりやすくするために、例えば恋愛の場合で言えば、普通はとてもうまくいっている時期があって、何かのすれ違いがあった時点から終わりが始まるわけですが、私の場合、多くはまだまだこれからじゃん、という時点から、頭の中でお別れシミュレーションが何通りもコンプリートできちゃっているわけです。
よく出来ましたシミュレーションは、完成しない。
上記は、恋愛の話ですが、
どうも最近、いろいろと(?)お別れシミュレーションが脳内で出来つつあるのです。
これはあることに深く感情移入してしまったということです。
(恋愛というようなものではないが、具体的には書かないというかちょっと書けません。)
感情移入していく段階ではいろいろとモチベーションも上がっていいことなのだけれども、残念ながら脳内はお別れシミュレーションモードにすでに入っていて、気分はさがりっぱなし。
これ、もともとは面倒な事を回避したがる性質によるもので、(だから希薄な関係の世界で生きていたわけだ)、これが始まるとまったく関係ないことまで回避したくなる。
ちょっと頑張って大人になるしかないんだよなあ。(やる気が起こらなくてもやることはやる)
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