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秀吉の側近に上り詰めた光成だが戦場での戦いの経験がないことが不安であった。そこで光成は筒井順慶に仕え家老職をしていて、主君の死で筒井家を飛び出し牢人をしていた島左近を自らの報酬の半分(2万石)をもって、召し抱える。そのころの光成は近江水口城主に取り立てられたばかりで石高は4万石であった。その後三成は五奉行筆頭になり、佐和山城19万4千石の城主となる。
巷では三成に過ぎたるものが2つある。島の左近に佐和山の城と揶揄した。
秀吉が死ぬと家康暗殺計画をねり、島左近を筆頭に800人の兵で上杉討伐で宿泊する近江石部宿夜襲をかけるたはずであったが、家康がこれを察知して、出発を早めたため、未遂におわった。
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