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九度山に流された昌幸と信繁には和歌山藩の監視がつけられていたが、藩主の浅野幸長は、なにかと援助している。昌幸父子の屋敷はもちろん、その家来たちの屋敷も建てている。
昌幸には上田時代の旧臣がひっきりなしに訪ねてきて、江戸の家康情報を知らせていた。また監視役の浅野家の家臣は大阪の秀頼情報をしらせていた。
死ぬまで家康打倒の気概は消えることがなかったが、九度山に幽閉されること10年、打倒家康を息子の信繁に託して世を去る。65歳であった。遺体は昌幸につきとってきた家臣どもによって荼毘にふされ、遺骨は松岱の真田山長国寺と上田の真田山長谷寺に葬むられた、
信繁
昌幸の死後3年の慶長19年11月、大阪冬の陣に大阪方として、参戦する、そして真田丸を拠点に大活躍する。
慶長20年、大阪夏の陣で討ち死に49歳であった。
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