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忠盛はその父の正盛と共に白河法皇の厩肥.祇園女子に仕える。さらには鳥羽上皇の覚えがめでたい待賢門院に重宝される。そのせいか、忠盛は13歳で左衛門少尉、16歳で京の治安維持を担当する検非違使になる。
その後、鳥羽上皇の為に「得長寿院」を建設した功績で内裏への昇殿をゆるされ、伯き守→越前守→備前守(白河院の判官代)と出世してゆくのです。
鳥羽院の時代には地方長官として院領荘園を任され、財力を蓄える。1133年に宋船が来航したのを着目し、積極的にかかわっていく。当時、日宗貿易の拠点は博多、大斉府、坊津だったが、忠盛は博多につながる神埼を領し、巨万の富をえてい。後を継いだ、清盛は大輪田泊を整備して宗貿易を独占する。
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