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昭和16年12月16日、不沈感として建造された大和が竣工しました。最大65センチの鋼板に守られ、艦内は細かく水密区間を区切り、傾斜を復元するための給排水システムを備えた船でした。
事実、昭和18年12月、トラック島沖で米潜の魚雷が命中してけれども、走行に支障なく帰艦している。
そして昭和20年4月、沖縄決戦に向かう途中の4月7日、12時40分から始まった米軍388機の攻撃でば爆弾4発と魚雷1発が命中するが、大和は速力を18ノットに落としたものの、戦闘可能な状態でした。
続く13時18分から始まった米軍の第2波攻撃では左舷に5本の魚雷を受け、機関室が浸水する。応急注水システムだけでは傾斜の復元が望めないため、損害を受けていない右舷機関室にも注水して沈むことなく、速度は12ノットまで落としたものの沖縄をめざして、航行する。
さらに、14時からの第3波の攻撃では爆弾3発と魚雷1本が命中、速度は6ノットまで低下する。
それでも沈まない大和に米軍は第4波の攻撃を開始する。14時12分から17分にかけて、3本の魚雷が左舷に命中、6分後の14時23分撃沈されてしまう。
大和は14時20分、作戦中止を決定、有賀艦長は総員最上甲板を命じて、自室に消え,艦と運命を共にした。そして、乗組員のうち3063人が、退避するまもなく犠牲になった。救助された乗組員は300人程度といわれている。
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