2011年1月9日、南禅寺にて。
芥川殿、実はのぉ、わしも一緒に観ておったのじゃよ。当然お主には見えていなかった訳じゃが。うむ。わしは泣けたぞ。うむ。お主は全ての素晴らしさ、この主人公であるクラウス・ブアマン、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ポール、ジョージ、カーリー・サイモン、ミック・ジャガー、これら20世紀の綺羅星たちと、このドキュメンタリーフィルムを撮ったカメラマンの映像の素晴らしさ。御意。芥川殿の写真と同じじゃったぞ。かたじけない。おまけに始まりから程なくして流れたジョージ・ハリスンの曲は、お主が行きつけだった北新地の店で、ピアノ伴奏で歌った最初の曲♪while My Guiter Gently Weeps♪じゃったしのぉ。うむ。わしは、お主のストレスがまるで雪が溶けるようにみるみる消えて行っているのが手に取るように分かっていたぞ。たしかに、その通りじゃった。芥川殿、お主は気が付くべくもなかった訳じゃが、わしはのぉ。号泣しておったのじゃ。現代とはなんという素晴らしい時代なのじゃろうかと思ってな。わしらの時代が不憫でならなかったのじゃ。古代からの伝統のように権謀術策に明け暮れて自分の子供や兄弟、妻を殺し、周りのすべてが敵のような中での殺しあいの日々。こんな素晴らしいとしか言いようがない人たちが生きていた、生きている今と、わしらの時代の気が遠くなるような違いにわしはわしの人生でも一度もなかったほどの号泣を抑えられなかったよ。分かるぞ、家康殿。
およそ誰も知らない南禅寺界隈の庭。12月30日。今の所有者はウォールマートの会長らしい。
庭のためにも良かった、と、芥川は心から思った。それで撮った一枚。様々な変遷が遭って一時期は荒れ果てていたのだが、
今は、京都でも最高といってもよい万両や、山茶花が素晴らしい色で咲いていた。
植物だって大事にされて=愛されて、すくすく真っ直ぐに
育つのだから。
うむ。そもそも今日は辛い仕事があったのじゃが、その前に内田さんの或る記事に大して、ちょっと中途な文章を書いてのぉ。やっぱり芥川が、「第二章」、に繋がるものを書く時はブログでは無理じゃなと思ったこともあったのじゃ。そしてそのまま辛い仕事の時間を迎えてのぉ。他人の苦労は我が苦労みたいな妙なことがあってのぉ。うむ。そのまま帰社時間を迎えたのじゃ。うむ。自分の魂の一部をどこかに置き忘れたままのような気分…フランスの素晴らしい詩人が寄宿舎で叩き起こされて魂をベッドに置き忘れたまま出て行く若者の哀しみを歌った詩のような感じじゃった。うむ。それでのぉ。うむ。件の女御が素晴らしい御馳走を作ってくれたのじょやが、それでも魂の一部はまだ戻って来てくれなかったのじゃが。うむ。そこでテレビで映画でも観るかと思ったのじゃがロクなものをやっていなかったから。そんなもんじゃろ、日本のテレビと言うのは。テレビ内臓のHDDに永久保存してあるものを観ようと。なんじゃ、お主は録画機とやらは持っていないのか。うむ。それで「ダスティン・ホフマン自己を語る」を観ようかと。うむ。じゃが、これではないな。うむ。やりばのないストレスとはそういうもじゃ。芥川殿はウィキペディアでわしはストレスに襲われると血が滲むほど爪を齧るのが癖だったと知ったじゃろう。わしが天下を統一するまでは日本は古代からずっと権謀術策だらけの国じゃったからのぉ。隙あらば人の寝首をかこうかという手合いだらけじゃったから、安心なぞは夢のまた夢じゃったのじゃよ。確かに。しかし人間というものはわしらの時代も現代もそう変わらぬものじゃろう。うむ。だから、わしはお主の真髄が分かり、お主は、わしの真髄が分かったのじゃよ。うむ。お主が今年の冬を京都の万両を誰よりも愛したこと、それゆえに誰よりも京都の万両から愛され、終にわしらの出会いに繋がったのも、わしらには共通のものがあったからじゃ。うむ。わしは天下を統一して、戦の日々に永久にピリオドを打ちたかった。御意。そのことは言わばわしの使命のようなものじゃった。うむ。わしらだけが知っている、お主の使命と実は全く同じことを成さねばならなかったのじゃ。御意。だから、わしらは出会ったのじゃよ。うむ。
12月30日、南禅寺・金地院の万両。
明日の京都行きもわが心が何の憂いもなく明鏡止水の心境で貴殿と対面できますように、御加護くだされぇ。
南無八幡大菩薩、わが家康公殿よ。パン。パン。
うむむ。任されぃ。
12月30日、金地院にて。
家康殿よ。 うむ。 貴公と芥川の縁は、腐れ縁かの。 およよ。なんてことを芥川殿。(笑)
わっはっは。あっはっはっ。 うむ。 芥川殿よ、わしらはお主の武運長久を願っておるぞ。様々な苦しみに遭った時には、いつでもおいで下され。もし、21世紀の至宝である貴殿に危害を加える者あらば、わしと三河5百騎、伊達公とその精鋭たち、尊氏公、義満、義政、源義経公…われら全てが成敗してくれようぞ。
およよ。なんとまぁ、言葉に尽くせぬ慮り。(呵々大笑) わっはっはっ。わっはっはっ。
金地院、12月30日、午後4時過ぎ。
日本の報道の問題点の全てが分かると思う。誰もが世論形成者になるのが民主主義であるとすれば、選挙権を持つ有権者全員が読むべきだと芥川は思う。
新聞やテレビが真実を伝えていると思ったら大間違いなのです。これは21世紀人間としては欠くべからざる条件、資質だと芥川は断じる。…因みにニューズ・ウィーク「日本語版」は、450円。…煙草一箱の価格です。
煙草で健康を害するよりは、日夜あなたを痴呆にしようと貴方の貴重な時間を奪いながら襲いかかってくる現代の凶器(笑)から、伊達正宗の見事な鎧・兜以上の、防具として、ニューズ・ウィークを読む方が良いと僕は思う。(笑)
客観報道という「欺臓」
権力とのなれ合いの最たる例が、検察とメディアの関係だ。
…中略
時にリーク情報というアメを渡しながら、検察は記者をほぽ完全にコントロールしてきた。
…中略
そもそもジャーナリストが完全に客観的である必要はない。取材対象の取捨選択や質問の仕方に既に主観は入り込んでおり、完全に客観的な報道をするのは不可能だ。その代わり記者はフェアでなければならない。しかし日本の新聞記者は客観性を標榜する一方で、フェアになることを忘れている。
フェアネスの欠如がはっきり表れているのが、鈴木宗男から小沢一郎まで、事件やスキャンダルに巻き込まれた政治家を一方的に血祭りに上げるバッシング報道だ。
「権力を監視する」という大義名分の下、水に落ちた犬をたたけとばかりに批判報道の洪水を起こし、各紙は付和雷同的に雪崩を打って世間の空気に流された紙面を作り上げる。思考力のある一部記者の「異論」は、それが正論であっても押し流されてしまう。
…後略。
「現場主義」の落とし穴
思考停止の理由の1つは、日本の記者が掲げる「現場至上主義」にあるかもしれない。日本人記者は→現場」という言葉を愛してやまない。「休みも惜しまず、真実を追い求め日夜現場を走り回っている記者たち」というイメージは心に響く。現場主義を徹底することは一見、ジャーナリズムの基本中の基本であるようにも思える。
実際、日本の新聞社やテレビ局は世界でもトップクラスの取材力と組織力を誇っている。ニュースの重要人物と判断すれば、取材対象を地の果てまで追い掛けるその機動力と人海戦術に驚愕する欧米メディアの記者は多い。「世界のどこに行っても、日本人記者だけは必ずいる」とアメリカの外交官も舌を巻くほどだ。
CNN北京支局のスティーブンーチアン記者は、数年前の6カ国協議の取材での光景が忘れられない。会場だった北京巾中心部の釣魚台迎賓館には各国のメディアが集まったが、なかでも圧倒的な数の記者やスタッフを擁していたのがNHKや日本の新聞だった。
…中略
問題は、そこで思考が止まっていることにある。行き過ぎた現場至上王義で「現場に行って取材すればそれで終わり」と満足し、記者はニュースについて深く考える機会を自ら放棄している。
…中略
現に優秀な警察記者が本社の花形部署に優先的に異動するという人事システムは基本的に変わっていない。 取材での忍耐力は身に付くものの、サツ回り経験は記者から健全な批判精神を奪いかねない。「夜討ち朝駆けでは権力との一体化が奨励される。批判的精神など役に立たない」と、毎日新聞の花岡洋二エルサレム支局長は言う。
…中略
「多くの日本の記者たちは夜討ち朝駆けの繰り返しで本を読む暇も、物事を考える時間もない」と、花岡は言う。「取材相手と渡り合うための知見などない」
その姿はまるで、軍隊で何も考えずにひたすら上官の命令に従うようにたたき込まれる新兵だ。新聞社で記者が今も「兵隊」と呼ばれるのは偶然ではない。そして、思考停止した記者の多くが権力との一体化という罠に陥る。
見出しは…問題は記者クラブだけじゃない 現場至上主義にとらわれるあまり 思考停止に陥った記者に依る
報道の「構造劣化」が進んでいる
…前略
権力におもねり、自主検閲し、揚げ句の果てにできた記事は横並びで偏向的ー今も日本メディアの「王者」であるはずの新聞をあげつらう声は尽きない。
その最大の原因として、今なお指摘されるのが記者クラブだ。省庁や警察など公共機関への取材活動を円滑化するために圭要メディアで構成されるこの組織は、一義的には政府当局などによる情報提供と記者同士の交流の場だ。その一方で、記者クラブは一部に公開の動きはあるにせよ、雑誌やフリLンヤーナリスト、外国特派員を排除し続けている。
確かに、その閉鎖性やなれ合い文化は日本のジャーナリズムにとって人きな弊害だ。政府権力と癒着した主要メディアの記者たちが「よそ者」を排除して情報を独占する代わりに、権力の言いなりになってしまうー。
もっともらしいストーリーではある。ただ日本のジャーナリズム、特に新聞の問で進む深刻な構造疲労は、記者クラブをめぐる単純な「物語」への批判だけでは解決しない。コピーしたように横並びの一面トップ、政局しか伝えない政治面、事件記者が狂奔する警察捜査の「前打ち」スクープ、企業のプレスリリースに毛が生えた程度のビジネス記事……‘記者クラブ問題は、横並びで批判精神に欠けるこういった記事が生まれる原因のごく一部にすぎない。
本当の問題は「シンブンキシヤ」という人種の多くが思考停止していることにある。その原因は、失敗を過度に恐れる文化や硬直した企業体質、それに現場主義と客観報道の妄信にある。結果、日本の新聞は、世界屈指とも言えるその組織力や記者の潜在力を生かし切れていない。新聞を「マスコミ」と批判する側も、記者クラブ問題に目を奪われるあまり、本当に処置すべき病根を見逃している。
ジャーナリズムの「役割」
その思考停止の度合いが甚だしいのは、国家権力の中枢である永田町や霞が関に棲息する政治部記者、なかでも最近生まれた「タイピスト記者」と呼ぶべき【亜種】たちかもしれない。
…中略
その姿はジyl‐ナリストというより、タイピストや速記係だ。政治家の街頭演説で、後輩記者たちのその姿を目撃したある全国紙のベテラン記者は、「彼らは演説者の表情の変化や聴衆の反応といった情報を見逃している」と嘆く。
…中略
前々章の続きです。
内田さん、あなたが新聞の功罪のうち功ではないかとした上げ方は、僕でもうなずかされかかった。…違うのだがな。それは、そこに在る重大な問題を隠蔽することにしかならないはずだがな。と思いながらですが。
そんなことは平成2年~4年にかけて彼らが一斉に挙げた正義感の大合唱が、「日本の失われた20年」、をもたらして7人に1人が貧困者等と言う今を作った事の免罪符にはならない。それだけではなく、折角廻っていた、「文明のターンテーブル」、を大停滞させて世界をすこぶる不安定にしたことの免罪符にはならない。芥川は…日本がこの不用・無用の大停滞に陥らず、米国と並立する自由と民主主義の覇権国家として、その声を世界中に高らかに宣言しておれば…9.11すらなかったはずだとまで思うほど。…「第一章」をご参照ください。
あなたが指摘した中庸の実態とは、全員=各紙各局横並び主義がもたらした、権力や官僚側からの情報盲信、盲従、はては追従、…それがこの国の新聞社論説員、テレビ局関係者の実態ではないと仰るなら、末尾に記す芥川のメールで御指摘、ご教授下さい。…芥川は、全くその通りだと見抜いて、「第一章」、で何度も指摘もしてきたが、先週号のニューズ・ウィークは、「だから新聞はつまらない」、として、その実態を見事に検証し暴いた特集記事を発表している。これについては先ほど略であれば構いませんとの許可を得ましたから別な章で紹介します。
平成2年~4年にかけての事はマスコミの罪としてもはや明々白々。今だって現内閣のようなものを誕生させた4か月前に彼らが為した事を見れば、その罪も明らか。
内田さん、これからの事は、もっと重大な問題だと芥川は思う。「第一章」、で書いた様に、平成2年4月1日に大蔵省が為した総量規制は時期とやりかたに於いて致命的に間違った。それは何故かと言えば、官僚と言うのは優秀で当り前なのだが、国民の税金で飯を食っていて、自分の命をかけて経営している企業経営者ではないから、分析はすこぶる得意だが予測は不得手…物事はすべて長所の裏に短所ありなのだから仕方がないのだ。
例えば、今、かれらが震源地として為している増税論=消費税増税、これが本当に、これしかない策なのか、あなたは考えて見たか?愈々もって日本を衰退の奈落の底に落とす…過去の大国の衰亡時の様に…増税路線に入ってしまうのではないか、と言う危惧を持たなくて本当に良いのか?
あなたがまさにインサイダーになるとどうなるかの見本の様な論をなして擁護した新聞各社は今、財務官僚の言いなりに、またまた全員一致で消費税増税やむなしの声を挙げだしているが。
財務省(旧・大蔵省)は、平成2年と4年に、すこぶる優秀ではあるが予測能力には欠ける事を歴史的事実として証明している訳だし、日銀も含めた日本の財務官僚たちは極言すれば予測能力或いは経済についての認識が間違っていたとして、世界中から、先進国が経済危機に陥った際における失敗の最高の見本とされ、デフレに陥る事を防ぐための政策の、一番の反面教師役を務めている事も、もはや歴史的事実。
それだけではなしに、平成2年のバブルの崩壊以上の世界的な大惨事だった3年前の金融大乱から今日まで、米国は、日本の反対の事=財務省とマスコミの反対の事=を果敢にやって、既に景気回復の軌道に乗せたのも歴史的な事実。
あなたは彼らが本当に為すべき全ての検証を行った上で、本当に、他に方策がないから増税論を打ち出しているのだと盲従、追従しておるのか。芥川は方策はあるとして芥川の論を、「第一章」、で書いた…為替についての部分だけは割愛したが…株式市場の実態と本質を本当に知っている人なら、芥川の論は荒唐無稽な論ではないことは分かるはずだ。
あなたが株式市場を、これこそ私たちの社会の根幹に在るものとして、例えば、2年間に渡って朝から晩まで注視し続けた等と言う事は有り得ないのは明瞭なことだが。
僕は、この確か1月5日に、貴方が朝日新聞に載せた、「日本の新聞論」、は明瞭に間違いだと思うし、その間違いが、梅掉たいじんの弟子筋にあたるはずの貴方が(私淑か門下生かは知らぬが)己の安穏の中で、インサイダーとしての論を為したからだと、21世紀の最澄は檄をとばす。
あなたが一生働いて年収500万円の、無名の労働者なら、その代わりとしての4人家族の幸福の中で、インサイダーとしての論を幾ら為してもいいのだが、年収1,000万円を超え、学者としてだけではなく、有名な文化人、言論人として、その論で飯を食む人間である事を思えば、いまの日本の新聞を擁護するなんぞは言語道断だと最澄は(笑)優秀であるはずの貴方に檄をとばす。
大体が、口を開けば、平成の開国だとか騎兵隊だとか、ロクなもんではなかった侍の時代の言葉を、頻繁に…本当は、これらのことに等、大した関心は無いはずだ…使う事を、たしなめもしないような新聞が、まともな民主主義国家の新聞だなどとどうして言えるのか。
芥川が京都行を続けている事は既述の通りだが、この間のJR車中での事は、以下に述べる事の顕著な実例だろう…JRの新快速に新大阪から乗ったら運よく4人掛けの席が空いてた。目の前には新人と先輩という関係の看護婦さんが座っていた…どこにでもいるごく普通の女性たちである…全ての話がいやでも聞こえていたのだが、京都駅に近づいた頃に海外旅行の話になっていた…先輩が曰く、一定の休みが取れたら必ず海外旅行に行く、(その回数たるや、流石の芥川も完全に負け)…そして京都駅に着いた瞬間に言った言葉は、ロンドン・パリが、国ではフランスが一番すきやな。
何が、平成の「開国」か、これこそ阿呆の言葉。この時の目の前の女性なぞは氷山の一角で、この20年超、どれだけの日本人女性が、どれだけの国を訪れているか、一辺、聞いてみい。
開国していないのは、己の頭の有り様だけだど瞬時に気がつくはずだから。
内田さんからの御意見、ご教授、或いは出版関係者の方が…芥川殿、さぞかし書かねば成らぬ事が、山の様にあるのでござろう。芥川殿の文章はネットで読まれるものではないのではないか。我が社から本を出して、その中で、書いて見ませんか?と、思われた時は、
sunsetrubdown21_2010あっとまーくmail.goo.ne.jp、に、御連絡下さい。
©芥川賢治
平安神宮から向ったのですが、この日はとても寒く、もう帰ろうかと思ったが、もうひと踏ん張りと歩き続けた。ところが、疏水沿いに南禅寺入口の交差点まで来た時に限界に近づいたので、これはいかん、あついうどんでも食べなきゃと思ったら運よく入口左に蕎麦屋ののぼりが。小さな家族経営の店だったが本物の蕎麦屋さんでラッキーだった。良い蕎麦屋のカレーそば・うどんがおいしい事は皆さまもご存じの事だと思う。元気を取り戻して一目散に歩きだした。
金地院入口。
今日は時間が有れば21世紀の最澄から内田樹さんへ檄をとばしたいと思うのです。今朝起きた時に年初以来気になっていたことにたいしての答えが、すらすらと出てきたからです。
既述したように芥川は新聞を本当に斜め読みし出しただけではなく1月5日ぐらいまで目を通すことすら拒否していたようなものだった。それもあんまりだなと最初に読みだした時に、内田さんの、新聞の有り様についての論文が目にとまった。
内田さんと言う人は梅掉たいじんの弟子の様な方、或いはたいじんのことは尊敬されている方だと思うし、学者としても優秀、気鋭の人なのだと思う。
けれども内田さん、それは違うと僕は思うよ。あなたは日本の新聞の有り様が良いとは言わないけれども、として、階級社会である欧州の高級新聞や(発行部数を例に上げて)貧富の差の激しい世界の新聞は階級新聞である事に比べれば、日本の新聞には以下の様な功はあるとも言えるのではないか、と言っていた訳ですが。
日本人の大多数の意見は産経新聞と朝日新聞の中間に集約されている。それは、まとまりと言う意味で功としていいのではないか、と言うものだった。
内田さん、それは本当に間違い。何故そんな論になるかというと貴方も結構な有名人でこの社会のエリートの一角に安住しているからなのだ、と、芥川が、現代の最澄として檄をとばす文章は、今日、書けたら書きます。
12月30日、南禅寺金地院にて。