即位と制度改革 文中黒字化は芥川。
大海人皇子は、天武天皇2年(673年)2月27日に天武天皇として即位する。
壬申の乱のときから政治について助言したという鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。
皇族の諸王が要職を分掌する皇親政治をしいた。
天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。
伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。
即位後間もない2年(673年)5月1日に、初めて宮廷に仕える者をまず大舎人とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。
あわせて婦女で望む者にはみな宮仕えを許した。
天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。
天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとしたとされる。
天武天皇5年(674年)1月25日には畿内・陸奥・長門以外の国司には大山位以下を任命することを定め、官位相当の端緒を開いた。
同じ勅で外国(畿外)の臣・連・伴造・国造)の子と特に才能がある庶人に宮への出仕を認めた。
天武天皇14年(674年)9月18日に大安殿で博戯(ばくち)の大会を開いている。
天武天皇は、本人が天文に長じており、天武天皇4年(675年)1月5日に日本初の占星台(天文台)を建てさせた。
同2月15日に、天智天皇3年(664年)から諸氏に認められていた部曲(かきべ。大化の改新より以前の豪族の私有民)を廃止する。
また、同日、皇族・臣下・寺院に認められていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。
続いて、有力者が私的に支配を及ぼすのを否定して、官位官職や功績に応じて個人に封戸(食封)を与える形式に切り替えた。
封戸の導入自体は天武天皇の代以前からのもので、内実の転換が段階的に進められた。
同年3月16日を初見として諸王対象に四位、五位など数字に「位」を付ける諸王の位が作られた。