先日来、私は、高山正之氏と石平さんの対談集を日本のみならず世界に知らしめる事が、今の私の使命と心得て作業を続けている。
安倍さんへの追悼として、産経新聞社が、実名で追悼する事を企画した時、私は、直ぐに手続きし支払いも済ませた。
当日、当然ながら、私の名前を紙面で探した。何度、探しても私の名前がなかった。
仕方がないから産経新聞社に電話してみた。
御多分にもれず、窓際族の様な人が応対してくれただけの事で終わってしまった。
すべからく、「美は細部に宿る」である。
以来、産経新聞に対する愛着が、だいぶ薄れた。
当然ながら、それまでのように紙面に気持ちが向かない。
だが、今日、有数の読書家である友人が、とても良い記事が掲載されていると以下の阿比留瑠偉氏の論文を教えてくれた。
産経新聞の市価を支えている、現役有数の本物の記者である彼に相応しい論文である。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
安倍氏目指した「優しい国」
令和4年は、世相を表す「今年の漢字」が「戦」とされたように、残念ながら暗い一年だった。
中でも安倍晋三元首相が、民主主義の根幹である選挙の演説中に銃撃され、「戦死」したことはいまだに受け入れ難いほどの衝撃だった。
「安倍氏は、日本や私たちの地域で、また世界中で事態を良い方向に変えてくれた。私たちはその生涯を祝福しなければならない。彼の人生は、それほどの成果をもたらすものだった」
オーストラリアのアルバニージー首相が7月、連邦議会での追悼演説でこう訴えたように、安倍氏が世界のあり方の再構築に果たした役割は大きかった。
米国の中国観と対中政策の転換を促し、歴史的に米国と距離を置いていたインドを引き込んで日米豪印4力国の枠組み「クアッド」をつくった。
対中姿勢が甘かった欧州諸国を説得してその認識を徐々に改めさせ、英国とは準同盟関係を築いて中国の台頭と脅威に傭えた。
まさに「生まれついての戦略家」(米歴史家・戦略豕のルトワック氏)だったといえる。
内政面でも安倍氏の経済政策「アベノミクス」で雇用と景気を回復させ、歴史認識を巡るゆがんだ言論空間や教育の是正でも、59年ぶりの教育基本法改正をはじめ過去にない成果を上げた政治家だった。
気配りを忘れない人
こうした目標に向かって何が有効かを冷徹な視線と観察眼で判断しつつ、少しずつ地歩を固めて一気に勝負に出る姿は、確かに老獪(ろうかい)だった。
ただ、決してそれだけではなかった。
類いまれな優しさを兼ね備えていた。
そして自身が中学3年生の時に発症した難病、潰瘍性大腸炎に長年苦しんできたためか、誰に対しても気配りを忘れない人物でもあった。
子供に恵まれなかったせいか、特に子供と接している際の温かい目が印象的だった。
2度の首相退陣はともにこの病気が原因だったが、第2次安倍政権時の症状が治まっていた頃、内閣官房参与として安倍氏の外交政策スピーチを手がけた谷口智彦氏が、筆者にこう語ったことがある。
「もしかすると安倍さんは物心ついて以来、今初めて(病気を気にせずに)全力を出せているのではないだろうか」
やり直せる社会提唱
筆者は7月8日の安倍氏死去後、まだ間もない頃に書いた月刊『正論』9月号の記事で安倍氏の功績として、安倍氏が掲げた「再チャレンジ」という言葉を用いてまず強調した。
「それは、安倍氏自身が大敗したり、挫折したりすることがあってもやり直せるという再チャレンジを実践してみせたことである」
立憲民主党の野田佳彦元自相も、10月の国会追悼演説で述べている。
「『再チャレンジ』という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。ここに、あなたの政冶家としての真骨頂があったのではないでしょうか」
安倍氏は、民主党から政権を奪還する直前、平成24年11月の各党党首討論会で、目指す社会についてこう切々と語っていた。
「女性やお年寄り、障害を持つ人にハードルのない自由な社会を作っていきたい。難病に悩む人がたくさんいる。そういう人々が仕事をしながら病気と付き合っていける暮らしやすい社会、何度でもチャンスがある社会を作りたい」
国際社会の冷厳な現実に対応しながらも、安倍氏が本当に目指したのは、こんな優しい国だったと指摘して追悼に代えたい。
(論説委員兼政治部編集委員)