以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。
「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。
傑出した国際感覚と歴史観
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。
渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。
安倍反対=正義の番組に食傷
二〇一五年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズーアップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。
今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。