2014年8月まで朝日新聞を購読していた私は渡部昇一氏が本物の大学者であることを全く知らなかった。
朝日新聞を購読していた殆どの人も同様だったはずである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
p205-p211
●当時の超一流国・イギリスと、なぜ日本は同盟を結ぶことができたか?
その前に日本にとっては幸いな出来事があった。
日露戦争が勃発する二年前の明治三十五年(一九〇二)に日英同盟が締結されたのである。
日英同盟はイギリスの国益を守るためにできたようなものだが、それは日本の国益とも一致したのである。
このイギリスの国益とは何か。
それはイギリスがシナ大陸に持つ自分たちの利権を指している。
では、なぜそのために日英同盟が必要だったのか。
実は日英同盟を結ぶ直前まで、イギリスは南アフリカでボーア人というオランダ系移民の子孫を相手に戦争をしていた(ボーア戦争)。
この戦争は一八九九年から一九〇二年まで四年も続いた。
このアフリカの南端で戦っていた陸軍が、いざというときにシナ大陸まで地球を半分回ってやってきてロシア軍を抑えることは到底不可能な話だった。
しかし、ロシアは今まさに南下をはじめている。
これを抑えなければ、シナに持っているイギリスの莫大な権限を守るすべがない。
そこでイギリスは日本と手を組むことにした。
これが日英同盟締結の真相である。
日本にしてみれば、イギリスは普通の国とは軍事同盟を結ばないという世界の超一流国である。
そのイギリスと軍事同盟を結ぶというのはたいへんなプラスなので、非常に喜んだのである。
では、イギリスがなぜ日本を選んだのかというと、それは明治三十三年(一九〇〇)に起きた北清事変がきっかけとなった。
これは北京にいる列強八か国の公使館のある区域が、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清を扶(たす)け、西洋を滅ぼす)を掲げる義和団という宗教団体の反乱(拳匪の乱)によって包囲され、それを後押しする清国が列強に対して宣戦布告をした事件である。
このとき、欧米列強は日本が救援軍を派遣することを望んだが、日本政府は三国干渉の経験から国際社会の反応を恐れて動こうとしなかった。
日本軍が動けば、日本を敵視している国は必ず「義和団の乱を口実にして日本は清を侵略した」と言い出すに違いない。
そこで日本政府は他国からの正式な要請がなければ動かないことにしたのである。
白人中心の世界に日本が受け入れられるためには、欧米協調を旨として、節度ある行動をとる必要があると考えたのである。
最終的にはイギリス政府が欧州各国の意見を代表する形で日本に正式な出兵要請をし、それを受けて日本は出兵を承諾したのだった。
その救援軍が到着するまで、北京の公使館区域を守るときにいちばんの活躍をしたのも日本人であった。
当時、北京にある公使館員を中心に北京防衛軍が組織されたが、その中で最も勇敢にして功績があったのは、柴五郎中佐という公使館付き武官の指揮のもと戦ったわずかな人数の日本人兵であった。 その北京防衛軍の司令官となったのはマクドナルドというイギリス公使であったが、この人は軍人でもあったため、柴中佐を中心とする日本軍の優秀さをいち早く認めた。
指揮が優秀であること、兵隊が実にきびきびとして統制がとれており、いつもにこやかであることなど、非常に感銘を受けたらしい。
それからまた、助けに来た日本の第五師団の規律正しさも欧米諸国に感銘を与えた。
第五師団は猛暑の中、悪戦苦闘しながら戦い、北京を占領する。
占領後は、各国の軍隊が占領地域を分割して治安維持をはかったが、占領地域において一切略奪行為を行わなかったのは日本だけであった。
これを見て、当時の北京市民は日本の旗を掲げたという話があるくらいである。
そういう様子を見ていたマクドナルドは、「日本は信頼できる」と本国の外務省に伝えたに違いない。
彼は北京のあと東京に公使として赴任し、日露戦争後には初代の日本大使になっている。
このマクドナルドがロンドンで日本の林董公使に最初に日英同盟の提案をし、伊藤博文ですら信じなかった日英同盟が成立するのである。
この日英同盟は、大正十年(一九二一)十二月まで、およそ二十年間にわたって存続した後、同年のワシントン会議の結果、解消されることになった。
これは当時、日本を第一の仮想敵国と見なし、対日戦略構想を立案していたアメリカの介入によるものだった。
日英同盟の代わりに結ばれた日・英・米・仏の四国協定は何の意味もない、何の役にも立たないものであった。
これ以後、日米関係は悪化し、日本は対米戦争の道に入り込んでいくことになるのである。