以下は8/17に発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
日本人像
日航機の御巣鷹山事故があったとき、テヘラン行きの飛行機に乗っていた。
まだイラン・イラク戦争の最中で、戦争特派員として駐在するためだった。
着いて最初にバザールを訪ねてみた。
鍋釜やシャンプーを買うためだが、行ってみてその臭気に閉口した。
まず香料がすごい。
食品も衣料も何でもサフランやクローブが匂い立っていた。
イラン人の体臭もきつかった。
オレは清潔漢だという助手も風呂は2週間に1度入るだけだから、みな3日目の靴下並みに臭った。
それに硝煙の臭いも混じる。
毎晩、イラク機が飛んできて爆弾を落とす。
昨夜もこの近くに250㌔爆弾が落ちたという。
そんな臭気に辟易していたら売り子が「ショマ、シネ、コリエ」と言う。
支那人か朝鮮人かという意味だ。
「ナー、ジャポネ」と答える。日本人だと。
「えっ」と周りが驚きの声を出してこちらを見る。
驚きに些かの崇敬の念も感じられる視線で、その理由を助手が話してくれた。それはパーレビ皇帝の皇太子時代に遡る。
エジプト王女フォージュとの結婚式に日本機がはるばる祝賀に飛んできたのだ。
当時、イランは英ソに脅かされ、実際、その翌々年に分斯占領されてしまう。そんなとき日本機が来た。
かつてソ連ことロシアを叩きのめし、今も白人列強に屈せず頑張っている。
国王は日本機に祝賀飛行への参加を求め、その雄姿は多くの人の記憶に残った。
そして開戦。
あの日本機と同型の96式陸攻が英戦艦プリンス・オブーウェールズを沈めた。イラン国民は今一度、祝賀飛行を舞った日本機の姿を思い出していた。
戦後、パーレビ皇帝は工業化の指針として「アジアの西の日本たれ」。と言った。
「日本人」と聞いて、そんな昔話を思い出したのだろうが、ただ、目の前にいる小柄で髭も薄いアジア人とどうもイメージは馴染まない風だった。
似たようなことはシリアの外れのチャイハナに行ったときにもあった。
日本人だというと彼らは顎を突き出してチッと舌打ちした。
もろ否定する仕草で「お前は日本人なんかじゃない」と言っている。
彼らの意見をまとめると日本は、アメリカ大陸近くに位置する工業国家で、「大きな白人」のイメージなのだという。
そんな印象の根っこは日露戦争の時代にまで遡る。
中東研究家でチャーチルの信任が篤かったガートルード・ベルは「シリア縦断記」の中で「夜、荷駄の世話をするベドウィンの若者たちが集まっては、いま戦われている日露戦争について熱っぽく語り合っていた」と記している。
メッカへの巡礼が行き来するイスラム世界では情報は予想以上に早く伝わる。ペル女史はその若者たちの話の輪に加わり、日本には日露戦争前夜の1903年を含めて2度訪ねたことがあると言ったら、彼らから日本について根掘り葉掘り聞かれたとある。
「顔は見えないけれど聡明で、逞しく、正義感の強い日本人像が勝手に作られていった風だった」と。
英領ビルマ時代、日露戦争の記録映画を見たラングーン大名誉教授タン・タットは「日本人がものすごい巨人に見えた」という。
だから先の戦争で進駐してきた日本軍が「小柄なのに驚いた」と。
日本人はロシアを倒した。
鋼鉄の戦艦も燃やす火薬を発明し、世界一強い戦闘機も生み出した。
強いだけでなく人種平等を説き、人類を苦しめたペスト禍も解決した。
集積回路を発明し、ディーゼルもクォーツも小型化して社会を豊かにした。
日本人はいつも大活躍してきた。
そんな日本人がどんな顔をしているのかは案外と知られていない。
安倍元首相が倒れたとき、アバダンで同首相の顔がビルの壁面に映し出された。
タイム誌が同じ顔を表紙に置き、それを見てタリバンが弔辞を寄せてきた。
世界を引っ張ってきた日本人に相応しい顔を世界はやっと見つけたようだ。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
日本人像
日航機の御巣鷹山事故があったとき、テヘラン行きの飛行機に乗っていた。
まだイラン・イラク戦争の最中で、戦争特派員として駐在するためだった。
着いて最初にバザールを訪ねてみた。
鍋釜やシャンプーを買うためだが、行ってみてその臭気に閉口した。
まず香料がすごい。
食品も衣料も何でもサフランやクローブが匂い立っていた。
イラン人の体臭もきつかった。
オレは清潔漢だという助手も風呂は2週間に1度入るだけだから、みな3日目の靴下並みに臭った。
それに硝煙の臭いも混じる。
毎晩、イラク機が飛んできて爆弾を落とす。
昨夜もこの近くに250㌔爆弾が落ちたという。
そんな臭気に辟易していたら売り子が「ショマ、シネ、コリエ」と言う。
支那人か朝鮮人かという意味だ。
「ナー、ジャポネ」と答える。日本人だと。
「えっ」と周りが驚きの声を出してこちらを見る。
驚きに些かの崇敬の念も感じられる視線で、その理由を助手が話してくれた。それはパーレビ皇帝の皇太子時代に遡る。
エジプト王女フォージュとの結婚式に日本機がはるばる祝賀に飛んできたのだ。
当時、イランは英ソに脅かされ、実際、その翌々年に分斯占領されてしまう。そんなとき日本機が来た。
かつてソ連ことロシアを叩きのめし、今も白人列強に屈せず頑張っている。
国王は日本機に祝賀飛行への参加を求め、その雄姿は多くの人の記憶に残った。
そして開戦。
あの日本機と同型の96式陸攻が英戦艦プリンス・オブーウェールズを沈めた。イラン国民は今一度、祝賀飛行を舞った日本機の姿を思い出していた。
戦後、パーレビ皇帝は工業化の指針として「アジアの西の日本たれ」。と言った。
「日本人」と聞いて、そんな昔話を思い出したのだろうが、ただ、目の前にいる小柄で髭も薄いアジア人とどうもイメージは馴染まない風だった。
似たようなことはシリアの外れのチャイハナに行ったときにもあった。
日本人だというと彼らは顎を突き出してチッと舌打ちした。
もろ否定する仕草で「お前は日本人なんかじゃない」と言っている。
彼らの意見をまとめると日本は、アメリカ大陸近くに位置する工業国家で、「大きな白人」のイメージなのだという。
そんな印象の根っこは日露戦争の時代にまで遡る。
中東研究家でチャーチルの信任が篤かったガートルード・ベルは「シリア縦断記」の中で「夜、荷駄の世話をするベドウィンの若者たちが集まっては、いま戦われている日露戦争について熱っぽく語り合っていた」と記している。
メッカへの巡礼が行き来するイスラム世界では情報は予想以上に早く伝わる。ペル女史はその若者たちの話の輪に加わり、日本には日露戦争前夜の1903年を含めて2度訪ねたことがあると言ったら、彼らから日本について根掘り葉掘り聞かれたとある。
「顔は見えないけれど聡明で、逞しく、正義感の強い日本人像が勝手に作られていった風だった」と。
英領ビルマ時代、日露戦争の記録映画を見たラングーン大名誉教授タン・タットは「日本人がものすごい巨人に見えた」という。
だから先の戦争で進駐してきた日本軍が「小柄なのに驚いた」と。
日本人はロシアを倒した。
鋼鉄の戦艦も燃やす火薬を発明し、世界一強い戦闘機も生み出した。
強いだけでなく人種平等を説き、人類を苦しめたペスト禍も解決した。
集積回路を発明し、ディーゼルもクォーツも小型化して社会を豊かにした。
日本人はいつも大活躍してきた。
そんな日本人がどんな顔をしているのかは案外と知られていない。
安倍元首相が倒れたとき、アバダンで同首相の顔がビルの壁面に映し出された。
タイム誌が同じ顔を表紙に置き、それを見てタリバンが弔辞を寄せてきた。
世界を引っ張ってきた日本人に相応しい顔を世界はやっと見つけたようだ。