写楽爺の独り言

写真好き爺の撮った写真の
紹介をメインにしています

土手の花

2022年09月28日 | 旅行など

前回のキバナコスモスを撮った同じ日に撮った土手の花です。
                   撮影は9月16日

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福島ドライブ旅行-5(最終回) 【二本松 安達ケ原】

2012年09月07日 | 旅行など
二日目ホテルをチェックアウトして磐越道猪苗代磐梯高原ICより郡山JCで東北道へ二本松へ向かいます。
二本松ICを降りて孫の父親の眠る墓地へ、墓参を済ませて鬼婆伝説の地「安達ケ原」へと向かいました。

 『黒塚』    【「観世寺」パンフレット「奥州安達ケ原黒塚縁起概説」より抜粋】
鬼婆の名は「岩手」京都の屋敷の乳母であった、育てていた姫の病気を治したい一心から「妊婦の生肝を飲ませれば治る」と言う易者の言葉を信じて旅立ちたどり着いたのが安達ケ原でした。
ある晩愁の夕暮れ時若夫婦が訪れ一夜の宿をこうてきました、その夜身ごもっていた若妻が産気づき夫は薬を求めて外出します。
「岩手」は待ちに待った生肝を取るにはこの時と若妻の腹を出刃包丁で裂き生肝をとりだしますが、若妻は苦しい息の下から「私は小さい時に京都で別れた母を探して歩いているのです」と語ります、「岩手」は若妻が持っていたお守り袋を見てその若妻がいとしい自分の娘であり事を知り気が狂って鬼と化しその後旅人の活血を吸い肉を食らい「安達が原の鬼婆」と言われる様になりました。

数年後紀州熊野の僧「東光坊」が訪れ部屋の秘密を知り逃げ出しますが、鬼婆に追いかけられ「これまで」と如意輪観音像に祈願するや尊像は舞いあがり一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺したと言う。
鬼婆を埋めた塚を『黒塚』と言う。 


 (1)「観世寺」とは少し離れた阿武隈川の河原にあり、大木一本の根元に「黒塚」の石碑があります


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 (4) 余談:黒塚の説明板を見ていた妻が説明板の屋根に頭をぶつけてしまいました
       うまい具合に帽子が板の切れ目に引っ掛かり心配するより一同大笑いでした 




 真弓山『観世寺』
以前に当Blogでも紹介した事がある『観世寺』です。
奈良時代に阿闍梨祐慶東光坊によって開基されたと言われています。

ここに鬼婆が住んだと言われる岩屋や宝物館には腹を裂いた出刃包丁・人肉を煮た鍋と言われる物などがありました。
「鬼婆伝説」は他県にも残されていますが、「安達ケ原鬼婆伝説」は歌舞伎・浄瑠璃などでの出し物となっていて特に知られています。

 (5) 「観世寺」門


 (6) 白真弓如意輪観音堂  下側に少し見える池が出刃包丁の血を洗ったと言われる「血の池」


 (7) 観音堂の裏手に鬼婆が住んだと言われる岩屋があります


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    福島旅行記も今日が最終回です、長期間ありがとうございました。
    旅行記を続けていて7月頃に撮った花は未整理のままとなってしまいました、
    来週中に整理してBlogアップもしたいと思っています。
  
      

福島ドライブ旅行-4 【裏磐梯高原の朝】

2012年09月05日 | 旅行など
何時もの事ながら今回ん福島旅行計画の中で苦労したのが宿泊施設です。
当初は初日に墓参りを済ませて実行したルートを逆回りする予定でした、旅館では洋室はあるものの部屋数が限られているし会津若松市内にはホテルも有るのですがビジネスホテルクラスで部屋(一部屋にはエキストラベット)狭く決まりませんでした。
結論はルートを逆に設定裏磐梯高原まで足を延ばして宿泊する事にしました。

2日間の総走行距離は700kmを超えることになりましたが、運転は次女の旦那が引き受けてくれたので助かりましたし、毘沙門沼(五色沼)の近くのホテルだったので早朝一人で撮影に出かける事ができました。
日の出は5時5分頃と聞いていたのですが目が覚めたのがその頃窓の外は明るくなっていたので窓から撮る事にしたのですが、窓は開いたものの網戸が転落防止のため開かず網戸越しの撮影となってしまい、レンズを網にピッタリ付けて撮る様にしたのですが角度が付くと網も写ってしまうb部分が出て来るので角度の付け方に苦労しました。

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朝陽を撮り終えてから毘沙門沼まで歩きました、太陽が昇ったとはいえ沼の周りは木々が有るので湖面は暗い状態で磐梯山が朝陽に輝いているの美しく見えました。

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 (9) 毘沙門沼付近では紫陽花がまだ咲いています、流石にUPに耐えるほどではありませんが。


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福島ドライブ旅行-3 【会津鶴ヶ城と飯盛山】

2012年09月03日 | 旅行など
大内宿を後にして日光街道(118号線)を北上し会津若松『鶴ヶ城』を目指します。
『鶴ヶ城』は南北朝時代会津地方に土着した蘆名 直盛(あしな なおもり)によって造られ当時は「黒川城」と呼ばれていました。
その後奥州の覇権を狙っていた米沢の伊達政宗が破れ伊達氏が入城するも豊臣秀吉の命で伊達氏はわずか一年余で岩手山城(宮城県)へ移り、その後に入城した蒲生氏郷により天守閣をもつ城郭が整備され「鶴ヶ城」と改められました。

時代は下り幕末に会津の名を全国にした戊辰戦争がはじまります、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りましたが兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりをつげます。

鶴ヶ城は明治時代に入って取り壊されてしまいましたが昭和40年に復元され、中は会津地方の武家文化などの博物館となっています。

    館内は階段のため妻と私は入館せず外で待つことにしました、
    私は待っている間に城を一周しながら城の写真を撮りました。

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 飯盛山『白虎隊士の墓』
奥羽越の諸藩と奥羽越列藩同盟ができ新政府軍との戦いとなり、名城鶴ヶ城は一カ月の籠城に耐えますが越後長岡城(新潟県)や二本松城が落城し鶴ヶ城は新政府軍に囲まれてしまいます。
兵士の数も少なくなり少年兵士「白虎隊」も出陣となりますが戦況がかわることは無く退却命令がで、やっとのことで飯盛山の中腹に退却しました。
高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているように見え「これまで」と自刃して果てました。

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 (11) 白虎隊士の墓 十九人の少年が眠る
     20人いたそうですが1人は川に落ちて村人に助けられ、それにより当時の状況が伝えられたとの事


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(13)  『さざえ堂』
1796年飯盛山に建立された高さ16.5m六角三層のお堂です。
正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といい、2重螺旋のスロープと言う変わった構造になっていて階段がありません。
スロープを登りきると下りのスロープとなる一方通行で参拝者は気が付かぬ間に三層に上り気が付けば一層目に降りていると言う構造になっています。
スロープに沿って西国三十三観音像が安置されいてはこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるという事だった様ですが神仏分離令によって三十三観音像は取り外されたそうです。




福島ドライブ旅行-2 【大内宿】

2012年08月31日 | 旅行など
「塔のへつり」を後にして同じ下郷地区にある『大内宿』に向かいました。
『大内宿』は会津若松と日光を繋ぐ会津西街道の宿場町で江戸時代には参勤交代が通り本陣や旅籠などがあり賑わったそうです。
明治維新以降は寂れてしまった様ですが、その事が幸いして再開発などされずに
茅葺屋根の建物が軒を連る景観が残されていて、1981年に宿場町としては妻籠宿・奈良井宿に次いで全国3番目に重要伝統的建造物群保存地区に選定され今では多くの観光客が訪れる様になりました。

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 (6) 雨の心配は無くなった代わりに真夏の青空と暑さでティータイムを取りました
     人懐っこいトンボがこの指止まれとばかりに私たち同様に休憩しました。


 (7) 道端に大きな花が咲いていました、大きさが判らないので下の写真の人の腕と比べて見て下さい。



 (8) この花も大きかったのですが(7)の赤い花程ではありませんでした


 (9) 休憩後更に奥に進むと「子安観音堂」のある高台に突き当ります


 (10) 子安観音堂への石段は長くはないものの炎天下ではこたえました
      登り切れば堂の周囲は木々に囲まれ涼しさを感じさせてくれます


 (11) 子安観音堂の屋根には草木が生えています


 (12)~(14)子安観音堂脇から見る宿場 ガイドブックの写真などで良く見られる様な写真です


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福島ドライブ旅行-1 【塔のへつり】

2012年08月29日 | 旅行など
厳しすぎる残暑が続いていますが8月ももう終わり、孫の中学の始業式は3日ですが1日にはPTAも参加する校庭の除草作業があり実質的夏休みは今日を入れて残すところ3日。
先週孫の父親の墓参りを兼ねて福島下郷から裏磐梯高原と二本松を周ってきました。

通勤ラッシュ前に高速に乗るため朝食を摂らずに出発し東北道「佐野SA」で朝食タイム。
福島地方の天気予報では午後から雨の予法も出ていて佐野SAでは雲が多くなって来ました。

 東北道白河ICを出て一般道289号線で福島県下郷の国の天然記念物に指定されている「塔のへつり」を
 目指します、289号線は山越えの道ですが途中から青い空に白い雲の夏空に変わってきました。

『塔のへつり』
「塔のへつり」は川の岸壁が浸食と風化によって出来た奇岩の景勝地です。
「へつり」とは方言で用心して歩くの意「へつって歩く」から来たそうで「塔」は浸食
された岩が塔の様に見える事から付いた名前だそうです。



 (1)みやげ物店の駐車場から少し下ると対岸に浸食された岩が見えてきました


 (2)つり橋を渡って対岸に行く事が出来ます 


 (3) この場所は比較的広いのですが場所によっては岩に張り付く様に歩きたくなる狭い場所も有ります


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 (9)つり橋上から見た岩の少ない方向の景色です


      信州に続き今度は福島旅行記を暫く続けます、宜しくお願いします。

信州ドライブ旅行-8 最終回 【諏訪大社 本宮】

2012年08月27日 | 旅行など
続けてきた「信州ドライブ旅行」もいよいよ最終回です、諏訪と言えば「諏訪大社」を外
すことはできません。
諏訪大社は諏訪湖を挟む様に下諏訪に「諏訪大社下社 秋宮」と「諏訪大社下社
春宮」、茅野に近い方に「諏訪大社上社 本宮」と「「諏訪大社上社 前宮」の4社が
あります。
勇壮な「御柱祭」で有名でもあります、4社それぞれに4本の柱が山から伐り出され
各社に建てる神事で7年目毎の寅と申の年に行われます。

下諏訪の「秋宮」と「春宮」は前に訪れているので今回は「上社本宮」に行きました。
「諏訪大社上社 本宮」には拝殿はあっても本殿がありません、
社の後ろにある「守屋山」が御神体とされているからだそうで4社の中でももっとも
古代祭祀の形式が残っているそうです。

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 (2)北参道の鳥居 


 (3) 鳥居を入ると左手に江戸時代の相撲取り「雷電為右衛門」の像があります
    諏訪大社起源にかかわる出雲国譲りの神話の中に力比べの話がありこれが相撲の始まりとか・・


 (4) 諏訪大社となれば参拝客も多く「本宮一之御柱」の前では団体客が説明を受けていました


 (5) 本宮一之御柱


 (6) 勅願殿 建立は元禄三年(一六九〇)、勅願とは天皇の祈祷という意味


 (7)~(10)神楽殿


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 (11) 東参道の鳥居


 (12) 鳥居を入った「入口御門」付近


 (13) 二之御柱と太い古木


 (14) 入口御門


 (15) 入口御門を進むと「額殿」と呼ばれ絵馬や額を納めた所があり「御柱大祭」に使われる飾りがありました


 (16) 参拝所


 (17) 拝殿 


 (18) 境内にある「宝物館」(有料)を見学後門前のお土産屋でアイスコーヒーと御幣もちでティータイム、
     その後中央道諏訪ICから帰路につきました。


       長い事「信州ドライブ旅行」記にお付き合いいただきありがとうございました。
       先週の福島行きの写真は現在整理中、次回から紹介していきたいと考えています。


信州ドライブ旅行-7 【諏訪 高島城】

2012年08月24日 | 旅行など
    福島からは無事戻りましたが、写真の整理は全くの手つかずなので「信州ドライブ旅行」記を続けます、
    あと一回で最終回【諏訪大社 本宮】となる予定です。

2日目の朝を諏訪湖畔で迎えました、雲は多いものの青空も見えドライブ日寄りです。
部屋の窓からは前日同様輝く湖面がありました、諏訪湖には色々な伝説伝承や物語がありますが1番の右下の像は浄瑠璃・歌舞伎の物語の悲劇の八重垣姫像です。
判りずらいので拡大したのが2番です。
      「上杉謙信の娘・八重垣姫は婚約者・武田勝頼のために兜を持ちだし諏訪湖を渡る、
        兜には諏訪明神の力が宿っており狐に導かれて諏訪湖を渡ってゆく」と言うお話です。

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ホテルをチェックイン後市内の『諏訪 高島城』に向かいました。
高島城は豊臣秀吉の家臣・日根野高吉により慶長3年に築城されたと言われ、その後慶長6年諏訪頼水が入城し明治維新まで諏訪氏が諏訪領主として続きました。
当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、湖と多くの
河川に囲まれて難攻不落の城といわれ別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。
明治維新後は取り壊され本丸跡が高島公園として開放されましたが、昭和45年に
天守が外観復元され、門や櫓などもあわせて復興されました。
現在の復元された天主は鉄筋コンクリート造りで1・2階は郷土や高島城の資料室に、3階は展望室になっているそうです。(天主内には入館しませんでした)

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 (6) 冠木(かぶき)門


 (7) 冠木門に架かる冠木橋上から見た高島城天主


 (8) 冠木門越しに見える庭園(高島公園)


 (9) 庭園(高島公園 本丸御殿跡) 


 (10) 高島公園内にある「諏訪護国神社」
        明治35年に諏訪招魂社として設立され明治~昭和の戦没者を祀っています


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信州ドライブ旅行-6 【諏訪湖畔】

2012年08月21日 | 旅行など
夏のドライブ旅行人の少ない場所選んで周ってきましたが一日目の終わり宿泊ホテルのある諏訪湖に到着しました。
まだ日も高く湖面は輝いています、湖畔にある「間欠泉センター」で温泉が湧き出る
時間が真近かだったので見て行くことにしました。
最大では50mの高さになる事も有るそうですが夏場は噴出量が少ないとの事で
この時は5番の写真の高さが最大でした。

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ホテルへチェックイン、部屋の窓からは正面に諏訪湖が見えます。
部屋風呂は展望温泉で湯船からも湖を見る事も出来ます。

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 (7) チェックインした時は綺麗な夕陽が望めそうだったのですが、だんだんと雲が多くなってしまいました。


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諏訪湖では毎年8月15日に大きな花火大会が開催されていますが、夏の時期小規模ながら毎日花火が打ち上げられると聞き、この日に部屋で花火が見られなんて思っていなかったので夕食も早々に部屋に戻って三脚を立ててスタンバイしました。
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      まだ信州ドライブの写真整理も途中ですが22日から一泊2日で孫の父親の墓参りに
      福島へ行って来ます。
      福島まで単に往復するのももったい無いので次女夫婦を誘い大内宿や会津鶴ヶ城等を
      周ってこようと思っています。


信州ドライブ旅行-5 【池田町立美術館と大王わさび農場】

2012年08月20日 | 旅行など
「塩尻鍋割穂高線」をずっと北上して来ましたが、昼食後は東進して池田町を経由して豊科ICをめざします、まだ時間も早いので「池田町立美術館」に寄る事にしました。
別名「北アルプス展望美術館」天候が良ければ北アルプスが望める高台にあります。
安曇野の風景画などが展示されているのですが、風景画観賞と同時に実際の展望が立ち寄りの目的でした、残念ながら雲が多くアルプスの展望は望ぞめませんでした。

   左側は美術館入り口 右はパンフレットから抜粋しました


 (1)~(2)美術館駐車場からの展望


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宿泊を諏訪湖に予約していたので豊科ICから岡谷ICまで短距離ですが高速を使います、豊科に向かう途中穂高地域に入ると「大王わさび農場」があります。
「大王わさび農場」は春の新緑野時期が良いのですが夏はどうなっているのか判りませんでしたが時間も有り寄る事にしました。
さすが安曇野の観光スポットで炎天下にもかかわらず多くの観光客が来ていましが、わさび田は太陽を避ける覆いがしてあり美しい風景とはいきませんでした。

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 (4) 害虫駆除などの作業なのか石をバーナーで炙る様な作業をしていました


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 (6) 地域の伝統である八面大王を祀った「大王神社」


 (7)~(10)農場内にある道祖神


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