ポリコレの正体 「多様性尊重」「言葉狩り」の先にあるものは 福田ますみ 方丈社 (2021/12/1)
amazonから紹介します。
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=ポリコレ)という正義の名のもとに、
新たな次元の支配システムが、アメリカを、そしてこの日本を蝕んでいる。
BLM、LGBTQ……「人種差別やジェンダーによる差別をなくし、多様性を認めよ」
という掛け声のもと、「新しい正義」が謳われ、その正義の基準に沿わないものは、
全メディア総出で、逃げ場なき集団リンチのごとく手酷く批判され、社会的に抹殺される。
キャンセル・カルチャーや批判的人種理論が幅を利かせるアメリカ。尻尾を振ってそこを
追いかけようとする日本のメディアが、日本を誤った道に連れて行こうとしている。
森喜朗元首相たたきもそうだった。仮に失言はあったにせよ、異様なのは、その後の
「全メディア挙げての集団リンチ、吊るし上げ」であり、反論さえ許さぬモンスター的
人格攻撃だ。「差別をするな。多様性を認めよ」と叫びながら、その実「自分にとって
都合の悪い多様性は一切認めようとせず」「新たな差別を創造する」流れは、今後さらに
増加し、極端化し、過激になっていくと思われる。それでいいのか? 防ぐ方法はないのか?
多様性とは、自らと違った立場の意見を尊重し、相互に認め合うことのはずなのに、
逆に「不寛容」ばかりが増し、企業も学校も社会も息が詰まっていく。
ポリコレ先進国・アメリカの悲惨さを見よ。非キリスト教徒に配慮するという
大義名分のもと、すでに「メリークリスマス」という言葉は奪われ、性差別への
配慮として、「お父さん」「お母さん」も公式の場では使えなくなってしまった。
カリフォルニアでは、LGBTQに配慮するため、結婚式の際、「夫」とも「妻」とも
言えないのだ。狂気だ。
日本は1日も早く先行するアメリカの過ちに気づき、本当の自由と平等を取り戻す
努力を始めなければいけない。「機会の平等」でなく、「結果における平等」を
保証することは、「新たな不平等を創造」するだけ。そこには絶望しかない。
今や、日本の学校では「あだ名」をつける事さえ、一律に禁止されようとしている。
「言葉狩り」や「#MeToo」、「マスク警察」や「ワクチン警察」、「お母さん食堂」
へのいちゃもんなどに代表される動きが、今後さらにエスカレートし、モンスター化し、
一方的なレッテル貼りをすることで、人々のつながりが分断され、冤罪事件を生んだり、
暴力や殺人など、新しい深刻な差別を生む日も遠くないのでは、と不安を感じている
人も多いように感じられる。
忠実で丹念な取材力を基本に、多くのノンフィクション作品で高い評価を得てきた
著者が、「ポリコレ」という新たな敵の正体を見出し、追い詰めていく。
現状のまま進めば、日本もジョージ・オーウェルの『1984年』のような全体主義
管理社会というディストピアにどんどん近づいていく。
なんとかそれを阻止したいとの強い思いが本書を書かせた。
目次
1章 ポリコレは、全体主義への一里塚
「お母さん」とさえ呼べなくなる? ――着々と進む、狂気の言葉狩り
2章 日本のポリコレは、「反日・日本人」養成所
正義なきメディアが「内心の自由」に踏み込み、断罪する恐ろしさ
3章 BLMの不都合な真実
蘇る「新左翼」――「平和な顔をした暴力革命運動」に騙されるな!
4章 LGBTを“弱者ビジネス"にしようとする人々
当事者たちに訊く――「新潮45」廃刊事件再考
5章 【事例研究】LGBTイデオロギーとどう向き合うか?
3つのケースから学ぶ、ポリコレ推進活動家への対処法
ポリティカル・コレクトネスとは、社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。 ウィキペディア