今日の話題は、「御成敗式目」。
「御成敗式目」は、1232年に執権・北条泰時を中心に協議された武士政権のための法令です。全51条は聖徳太子の17条を3倍したものといわれています。
第1条
一、可修理社專祭祀事
右者依人之敬威、人者依之添運、然則恆例之祭祀不致陵夷、如在之禮奠莫令怠慢、因茲於關東御分國々并庄園者、地頭主等各存其趣、可致誠也、兼又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣
現代語訳がありますので、全文を読んでみましょう。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html
第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国(かんとうごぶんこく)にある国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。
とてもわかりやすく書かれていますね。
内容も身近なものです。たとえば…
第12条:「悪口の罪について」
争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は島流し、軽い場合も牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し、領地がない場合は流罪とする。
このようなものもあります。
第34条:「人妻と密懐(びっかい)することの禁止」
人妻と密通をした御家人は所領の半分を没収する。所領がない場合は遠流にする。相手方の人妻も同じく所領の半分を没収し、ない場合は遠流とする。
ここからは、当時の裁判基準がかなり公平だったことが伺われます。
おそらくは、頼朝は問注所を設けて、公平な裁きをおこなってきたのでしょう。
御家人から絶大な信頼を集めて「鎌倉殿」と呼ばれたのは、こうしたことも影響をしているのではないでしょうか。
原文には、「この右、右大将家の御時定め置かるる所は」と出てきます。右大将家は頼朝のことで、「頼朝公が決めたとおり~」という意味です。
「御成敗式目」は、頼朝の判断基準を文章でまとめたものといえるでしょう。
これが江戸時代まで生き、各国の分国法に影響を与えました。
寺小屋などの教科書としても使われたほどです。
一つのシステムを作った源 頼朝という人を、あらためて追究してみたくなってきます。
「御成敗式目」は、1232年に執権・北条泰時を中心に協議された武士政権のための法令です。全51条は聖徳太子の17条を3倍したものといわれています。
第1条
一、可修理社專祭祀事
右者依人之敬威、人者依之添運、然則恆例之祭祀不致陵夷、如在之禮奠莫令怠慢、因茲於關東御分國々并庄園者、地頭主等各存其趣、可致誠也、兼又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣
現代語訳がありますので、全文を読んでみましょう。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html
第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国(かんとうごぶんこく)にある国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。
とてもわかりやすく書かれていますね。
内容も身近なものです。たとえば…
第12条:「悪口の罪について」
争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は島流し、軽い場合も牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し、領地がない場合は流罪とする。
このようなものもあります。
第34条:「人妻と密懐(びっかい)することの禁止」
人妻と密通をした御家人は所領の半分を没収する。所領がない場合は遠流にする。相手方の人妻も同じく所領の半分を没収し、ない場合は遠流とする。
ここからは、当時の裁判基準がかなり公平だったことが伺われます。
おそらくは、頼朝は問注所を設けて、公平な裁きをおこなってきたのでしょう。
御家人から絶大な信頼を集めて「鎌倉殿」と呼ばれたのは、こうしたことも影響をしているのではないでしょうか。
原文には、「この右、右大将家の御時定め置かるる所は」と出てきます。右大将家は頼朝のことで、「頼朝公が決めたとおり~」という意味です。
「御成敗式目」は、頼朝の判断基準を文章でまとめたものといえるでしょう。
これが江戸時代まで生き、各国の分国法に影響を与えました。
寺小屋などの教科書としても使われたほどです。
一つのシステムを作った源 頼朝という人を、あらためて追究してみたくなってきます。