どっかに書いたかもしれないけど
25年の間には何度も
「天理教やめたい!」
「もういやだ!」と思ったことがある。
切り替えが早いのか、その気持ちは長続きせず終わる。
またなんかの拍子に思い起される。
結局いまだ信仰を続けてる。
信仰をしているっていうのはそもそもどういうことなのか。
毎日教会へ運ぶことでもないでしょう。週に一回でも運んでたら
信仰をしてるってことでもないし。
にをいがけおたすけをしていないと信仰をしてない
ことにはならないでしょう。
理立てをたくさんしているからではない。
修養科へ行って成人して帰ってきたから信仰へつながるわけじゃあない。
やめちゃう人だってけっこういると思うし。
信仰をしているってのは、自分の自覚がすべてなのかな。
人がどう言おうとしてないって思ったらしてないんでしょうし
ようぼくだし信仰してますって思っていたらそうなのでしょう。
信仰ってなんだろう。
忘れちゃったよ。
そこにこだわることはないのかも。形ではなくて心。
思いが神様のほうを向いているのか。
おたすけ心があるのかどうか。
親心になれるのかどうか。。。。。
そうか。
幾度となく聞かせていただいている。
”助かりたいから人を助けたいにならないといけない”って。
助かりたいから人を助けたい心に変わったときから
『信仰している』になる!!
なんでそういうことを書いているのかというと
先月の300円プロジェクトで感じたことにつながる。
上福岡から新河岸駅へ向かう道中は道を聞きながら移動したって書いた。約2時間かけて「この道でいいのかな」「こっちでいいのかな」「このあたり面白そうだから戸別したいな」
と興味をそそられながらも先を急いで歩いたって。
そのうち知っているアパートが出てきて「ここ来た」ってなって、この道はあの道だなって不安が確信となって行ったのよ。「もう大丈夫だ!」って。
まるで私のお道人生のようだ。
今自分がいる地点は「大丈夫、違ってない」と思って歩いている地点なんじゃなかろうか。本当にそうだなって思った。そのことを再確認させてもらわなきゃならなかった。今回のチャレンジの収穫(というならば)のひとつだと思った。