人生悠遊

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実朝を識る ーー『源実朝』(吉本隆明)ーー

2020-08-03 20:20:27 | 日記

吉本隆明(1924-2012)の『源実朝』(1971年)の書き出しは次のようにはじまります。

 あの戦争のころ、できたらその一言一句もききもらすまいとねがっていた文学者のうち、太宰治と小林秀雄とは、もう最後の戦争にかかったころ、それぞれの仕方で実朝をとりあげた。太宰治は『右大臣実朝』をかき、小林秀雄は、のちに『無常といふ事』のなかに収録された「実朝」論をかいた。

前作のブログで坪内逍遥の戯曲『名残の星月夜』を紹介しましたが、この「もう最後の戦争にかかったころ、それぞれの仕方で実朝をとりあげた」の一文があり、「あの戦争」をしらない世代がどう実朝的なものを書いたのか知りたかったわけです。では今回紹介する『源実朝』を書いた吉本隆明はどうかと言えば、あの戦争前に生まれ、青春時代を戦争と共に過ごし、東京工業大学を卒業したあとに評論家として活躍しました。新潮社の著者プロフィールによれば、「思想界の巨人」だそうです。この『源実朝』は1971年に発表されました。大学紛争が終息し、翌年には浅間山荘事件が起こるころです。著者が何故この時期に実朝をとりあげたのか?

吉本隆明は、この『源実朝』の中で、坪内逍遥の戯曲『名残の星月夜』は力作であり、実朝の謎の渡宋計画の解釈が独特である。さらに逍遥に全く欠けていたのは鎌倉幕府という〈制度〉の象徴としての実朝という観点である。と書いています。この制度というのは惣領と庶子の関係です。惣領とは武力権と祭祀権を併せもつ者。鎌倉幕府の誕生時に、御家人たちが源頼朝に求めたものは、〈貴種〉として象徴的存在であるとしています。まだ共に戦った頼朝はよかったのですが、平和になってからの将軍実朝は、鎌倉幕府の祭祀権の所有者としてのみの存在だったようです。

さらに公暁の実朝暗殺については、北条義時が公暁をけしかけたとし。実朝の位階昇進を最も反対したのは義時と泰時の親子である。官職ナンバー2の右大臣になってしまったあとでは、征夷将軍と太政大臣を兼ねたものを殺害することは、この時期まだ健在な律令政権の最高責任者に抗することになるので、実朝を殺害するチャンスは右大臣拝賀式の当日しかない。

なんとも論理だった謎説きです。なにが真実なのか?そして泰時の役割は?興味はつきません。

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