人生悠遊

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実朝を識る --「実朝」(小林秀雄)--

2020-08-04 21:21:20 | 日記

小林秀雄は、昭和17年(1942)に「無常ということ」と「西行」。昭和18年に「実朝」を書いています。日本が真珠湾を攻撃して米国が参戦したのが昭和16年12月8日。ミッドウエー海戦が昭和17年6月なので戦局は風雲急を告げる時期ということになります。そんな時期にどんな気持ちで「実朝」に向きあったのか?大変興味ある「実朝」論なのですが、奥が深く、とても1000字程度で語れるものではなく、小林秀雄の実朝にせまることができませんでした。そうは言っても、折角なので印象に残った部分を拾い読みしたいと思います。

書き出しは、芭蕉は、弟子の木節に、「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたそうである。言うまでもなく、これは、有名な真淵の実朝発見より余程古い事である。・・・。僕には、何か其処に、万葉流の大歌人という様な考えに煩わされぬ純粋な芭蕉の鑑識が光っているように感じられ、興味ある伝説と思う。・・からはじまります。そして『吾妻鑑』については、実朝の悲劇を記した「吾妻鑑」の文を読んでいると、その幼稚な文体に何か罪悪感めいたものさえ漂っているのを感じ、一種怪しい感興を覚える。・・と書いています。

そして、佐佐木信綱氏の「定家所伝本金塊集」の発見について書かれています。従来実朝の歌と認められて来たものの大部分(六百六十三首)は、それが彼の全製作という確証はないが、ともかくすべて彼の廿二歳以前の作であるという事。実朝廿二歳のときに和田合戦があったことを忘れてはいけません。

そしていくつかの実朝の秀歌の解釈が載せられていますが、実朝に降りかかった悲劇を前提に書かれているせいか、どうも子規の実朝評に比べ、おおらかさや明るさが感じられず、ちょっと好きになれませんでした。あの戦争が「実朝」論を書かせたとすれば、やむを得ないかもしれません。

 

 

 

 

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