大佛次郎『源実朝』(徳間文庫)の巻末解説(福島行一氏)には次のように書かれています。この『源実朝』は、昭和二十年八月十五日の敗戦をはさんで、その前後に執筆・発表された特異な作品である。前編の「新樹」は『婦人公論 』の昭和十七年九月号から翌年十一月号まで連載され、続編の「唐船」は『新女苑』に昭和二十年六月号から二十一年三月号まで連載のうえ完結したとあります。作者大佛次郎は「僕の鎌倉住居も二十年を越えた。今、源実朝を小説に書こうとして心強く思うのは、鎌倉の風物については、たいていの作家よりもよく知っていようということである。国破れて山河ありというが、七百年前に実朝を囲んでいた自然と、現代の僕が鎌倉の谷戸の奥に入って眺めるものとは、さして違いはないはずである」。
まずこの『源実朝』の前編「新樹」は、戦時中の女性読者のために書かれました。太平洋戦争中であり、当然にその内容は軍の検閲を受けたと思います。先に紹介した太宰治にしても小林秀雄にしても、みな戦時中にも関わらず「実朝」ものを執筆しています。何故でしょうか?実朝は戦時統制下において、害のない人物・物語であったと考えざるをえません。一つは、実朝の後鳥羽上皇に対する畏敬と忠誠の気持ちが実朝の詠んだ歌に溢れていること。そして右大臣拝賀式で公暁に殺害されたという悲劇性でしょうか。さらに加えると『吾妻鑑』という、いかようにも解釈できる資料が入手できたからだと思います。
では大佛次郎が「実朝」をどのように描いたか?まず大佛次郎の母の尼御台や叔父の義時が実朝を見る眼が優しさであふれています。特に公暁の実朝暗殺の黒幕が北条義時でないところがいいですね。義時の家臣である深見三郎次郎致興の唆しによる公暁の単独犯の立場をとっています。これは『吾妻鑑』というより『愚管抄』に近い解釈です。鎌倉市民としてはこのほうが受け入れやすいかもしれません。再来年の大河ドラマで小栗旬がどう演じるか?興味は尽きません。
さて写真は伊豆山神社ふもとの走湯のものです。実朝が二所詣に行ったとき、走湯山に参詣した時の歌が三首あります。その一つ。
642 わたつうみの中に向ひていづる湯の伊豆のお山とむべも言ひけり
伊豆山とは「湯出づ山」の意味なのだと、地名に興趣をおぼえての作であると、解説にありました。少年実朝が社会見学で詠んだ歌でしょうか。親しみが持てます。