今日は鎌倉文学館に源実朝の歌碑(641 大海の・・)があるということで取材に出かけました。また特別展は昨日から始まった小津安二郎展です。そして鎌倉ゆかりの文学者を紹介するビデオで、たまたま川端康成の『山の音』を紹介する映像が映っていましたので、思わず見入ってしまいました。そしてこれも先日読んだ小林秀雄の『無常という事』のなかに川端康成との思い出話があったのを思い出し、このブログとなりました。長いですが、その一文を抜き出してみます。
・・・。又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも耐えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(「文學会」昭和十七年六月号)
作家や評論家という人たちはこういう見方をするものだと、凡人の私には分からない世界です。どうして川端康成の名前がでてきたのか、「笑って答えなかった」というのは、小林秀雄の考えに同意したのか、反論したとすればこの一節はなかったに違いないなどと、いろいろ思いをめぐらしてしまいました。川端康成が亡くなったのは昭和47年4月16日。自殺でした。この作品から30年後なので、思い出して命をたったとは思えませんが、芥川にしても太宰にしても作家の多くは短命です。みんな早く人間になろうとしたのでしょうか・・・。
今から80年近く前の小林秀雄の書いた文章から、半世紀前に自殺した川端康成の事を思い出したわけですが、新型コロナ対策の外出自粛であれこれ考える時間が増えたせいかと思います。安倍総理も病には勝てませんでした。「禍福は糾える縄の如し」「災い転じて福となす」「人間万事塞翁が馬」などの言葉がありますが、ここで生き方をスローダウンするいい機会かと前向きにとらえています。
なお写真は長谷の川端邸です。