今日は8月15日。お盆でもあり、あの戦争の終戦記念日でもあります。昔から死んだ人の魂は存在し、生きていると信じられてきました。だから亡くなった人のことは忘れてはならず、お盆というこの日に思い出し供養してあげなくてはなりません。こういう日であれば、荒唐無稽の妄想話を書いても許されると思っています。
本ブログではここ数回にわたり源実朝について書いています。そのために明治時代から平成にいたるまでに書かれた実朝本を読み漁りました。そしてその原典の書は、『金槐和歌集』『吾妻鑑』であり、『愚管抄』などです。特に史実と創作した物語がごっちゃになって書かれている『吾妻鑑』と、実朝のこころが表現されたとされる『金槐和歌集』があることで、作者の自由な解釈がなされたわけです。
さて実朝の短い生涯のなかで私が知りたい事実は次の点です。一つは「渡宋計画は史実なのか」、つぎに「公暁による実朝殺害の黒幕は誰か」、そして「北条泰時は全く表舞台に登場しないが、実際はどうか」ということです。ここから妄想の世界に入りますが、最初の実朝の渡宋計画が書かれた『吾妻鑑』は、史実というより誰かによる創作物語ではないかと考えています。なんのためにこの記述があるかは分かりませんが・・・。
次に公暁による実朝殺害の黒幕と最後の疑問についてですが、『吾妻鑑』と『愚管抄』の両方に登場するそれに近い容疑者は北条義時と三浦義村の二人です。『愚管抄』では北条義時は現場におり、公暁は義時も狙って「親の敵を討取った」と言ってます。そして公暁は殺害のあと三浦義村を訪ね、逆に討取られますが、三浦義村は両方ともに登場しますので共謀者の一人と考えて間違いないでしょう。しかし彼を首謀者とするにはちょっと小者すぎます。三浦義村に近い首謀者がいるはずです。
最近、私は武家政権の基礎をつくったと考えられる執権北条泰時と律令制度の基礎固めをしたとされる藤原不比等という二人が重なって見えます。藤原不比等がでてくるのは、梅原猛の『神々の流竄』や『隠された十字架』などの影響が間違いなくあります。『吾妻鑑』は『日本書紀』と同じように武家政権の整備を目指した北条泰時によって創作された物語であるとの妄想が膨らんできました。実朝は後鳥羽上皇に近づき過ぎました。吉本隆明氏の右大臣拝賀式をラストチャンスとする説と二年後の承久の乱時の北条泰時の活躍をみると・・・さもありなんと思いはじめています。