今日は3月14日。昨日の春の嵐から一夜明けて快晴の朝を迎えました。富士山も真っ白で今シーズン一番の雪化粧の姿。こういう日は滅多にないので鎌倉山からの富士山を撮影するために散歩にでかけました。写真はその1枚。この写真を撮っていたら親切な地元の人から貴重なお話を伺うことができました。場所は七里ガ浜東5丁目公園の上。この公園があった場所は住宅地が造成される前は沼地だったとか。さらに鎌倉山の給水塔の下には滝があって修験道の行者は滝行をしていたとか。自宅には住む前から井戸があり今でも現役で洗車の水に利用しているとか。足もとの小道のように区切られた場所は古くからある古道で七里ガ浜から鎌倉山にぬける道だったとか・・・。話は尽きず昭和30年頃の話をいろいろ教えていただきました。
さてこれからが本番。まず吉川英治歴史時代文庫『私本太平記(五)』からの話。第五巻は丁度、新田義貞の鎌倉攻め、鎌倉幕府滅亡の巻です。そのなか《稲村ケ崎》にまさにこの地が出てきます。極楽寺坂を攻めあぐねている新田義貞の軍勢。三木俊連の一勢が行合川の本陣から密かに田鍋谷を通り長谷山から極楽寺の北条方の背後をつくために今の鎌倉山を登っていきます。もしかしたら先ほどの古道を通ったかもしれません。七里ガ浜東5丁目公園あたりが沼地だったとすれば、行合川から山すそを通ればこのあたりに出ます。そして今の鎌倉山神社のあたりから長谷山に出たのでしょう。地元の方の話では、このあたりには掘れば骨とか刀などが出るということ。
次は「那智の滝」の話です。こんな場所に滝があったなんて信じられませんが、井戸があるということからすれば、鎌倉山に地下水脈があり、崖の縁から水が湧きだし滝があっても不思議ではありません。実際にそこで水行をしている写真もありますので昭和30年頃までは滝があったのでしょう。滝の下は聖福寺公園。その先の極楽寺への道筋には熊野権現社の祠もあります。この辺りは鎌倉の熊野信仰の地であったかもしれません。
今では何も残っていない七里ガ浜の住宅地にこれほど歴史を感じさせる場所があるとは・・・。新田義貞の鎌倉攻めは旧暦の五月。今日のように鮮明な富士山は見えなかったかもしれませんが、ひょっとしたら噴煙の上がる遠くの富士山が見えたかもしれません。なんとも不思議な思いがしました。