人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー太田道灌と鎌倉府ーー

2021-09-18 17:05:54 | 日記

最近、太田道灌の研究家の方と鎌倉市内の道案内でご一緒する機会がありました。その方は大学教授といった専門家ではなく、ボランティアで太田道灌一筋に調査や講演活動、執筆をされておられます。私と同じ辰年で一回り先輩になります。フィールドワークを主体とし、道灌ゆかりの地を200か所以上探訪し、『道灌紀行』という本も出されていますが、その精力的な活動には頭が下がります。

さて太田道灌は1432年に鎌倉で生まれたとされています。父親は扇谷上杉氏の家宰である資清です。太田家は代々「資」の字を名前に使っていますので、個人的には親しみを感じています。1438年には鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が争った永享の乱が起きていますが、その2年後に鶴千代丸(道灌の幼名)は鎌倉五山(建長寺など)で和漢の勉学をはじめ、その後足利学校で学びました。太田道灌の屋敷は扇谷の管領屋敷の近く今の英勝寺の所にありましたので、源氏山や亀ヶ谷坂は庭のような場所だったと思います。

元服して資長となり、足利成氏が幕府軍に追われ古河に遁れた後も扇谷上杉家の持朝の命に従い、江戸、河越、岩槻に城を築いています。その後1467年の応仁の乱勃発後、1482年に古河公方と幕府軍の和睦が成立するまでの長い間、扇谷上杉氏を支え、戦に明け暮れた歳月を送りました。その活躍はご存じの通りですが、1486年に主君である扇谷上杉氏の上杉定正に謀殺されてしまいます。現代風に表現すれば「上司のために懸命に働きながら思慮の浅い上司により非業の最後を遂げる悲劇」(太田道灌子孫の太田資暁氏の言葉)ということでしょうか。そんな生き方が共感を呼び人気のある人物です。

写真は鎌倉の英勝寺の門を写したもの。三つ葉葵と桔梗を重ね合わせた模様が特徴的で寺にゆかりの水戸徳川家と太田家の関係を想起させます。その詳しい経緯は英勝寺を参拝し、寺の縁起を読んでください。またいつ訪れても季節ごとに美しい花が目を楽しませてくれます。

 

 

 

 

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