北條寺の墓地の一段高く、韮山の街が一望できる場所に北条義時夫妻の墓があります。墓の向きは北の富士山の方向で、そばの案内板を読みますと、義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると記されていました。
ここで左の墓ですが、後妻である佐伯氏の娘と書いてあります。義時の継室は、藤原秀郷流の武将の伊賀朝光の娘(伊賀の方)で佐伯氏とは無関係のような気がしますが、いろいろな資料にあたってもよく分かりません。正直なところ最初に義時夫妻の墓と書いてあるのをみて伊賀の方の墓ではないなと思いました。これは大河ドラマをみているせいかもしれませんが、義時の死に至る経緯や死後の伊賀氏の変から、伊賀の方が義時の隣に埋葬されるはずはないと思い込んでいました。伊賀氏の変の顛末は、伊賀の方は北条の地に追放された後に病死したことになっています。しかし伊賀の方の子である北条政村は失脚することなく、のちに執権になっています。この北條寺に義時夫妻の墓と伝わっていることから推測しますと、北条泰時らは後々のことを考え、事件を早く収束するために義時夫妻の墓を造ったのかもしれません。ただし義時の後妻の素性は、伊賀氏の娘とすると不都合なので、意図的に佐伯氏の娘としたとも考えられます。またまた妄想が過ぎました・・・。
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