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前回のブログでも紹介した菊川の里。小夜の中山からの菊川坂を下ったところにあります。鎌倉時代に京都から鎌倉に下向するとき、よほど小夜の中山越がこたえるのか阿仏尼、中御門宗行、日野俊基らの旅人はこの菊川の里に泊っています。この三人のうち阿仏尼は既に登場していますが、今回は中御門宗行と日野俊基ゆかりの詩碑や歌碑について触れてみたいと思います。
まず中御門前中納言宗行ですが、承久の乱のとき後鳥羽上皇の側近のひとりで敗戦後に処刑されました。『承久記』にその宗行が鎌倉に下向する途中、菊川での様子が書かれています。
中御門前中納言宗行は、小山新左衛門尉具し奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。「ここをば何と云ふぞ」と問給へば、「菊河」と申す。「前に流るる川の事か」。「さん候」と申ければ、硯乞出て、宿の柱に書付給ふ。
昔南陽懸之菊水 酌下流延齢(下流を酌んで齢を延ぶ)
今東海道之菊川 宿西岸失命(西岸に宿して命をうしなう)
と書て過給へば、行合旅人、空き筆の跡をみつつ、涙を流さぬは無けり。
そして『海道記』の作者は貞応二年(1223)四月四日に京都を発ち、同一七日の鎌倉に着くという旅をしています。菊川に泊ったのは承久の乱の二年後。まだ記憶に新しく、処刑された宗行への思いはいかばかりだったでしょうか?
菊河ノ宿ニ泊ヌ。或家ノ柱ニ中御門中納言宗行卿斯書付ラレタリ。・・・。誠ニ哀ニコソ覚ユレ。
さらにその百年後の元享四年(1324)の正中の変のあと、日野俊基が鎌倉に護送される途中、この菊川の宿で日野俊基が宗行を偲んで詠んだ歌の歌碑がありました。
いにしへもかかるためしを菊川のおなじ流れに身をやしづめん
同じように倒幕に立ち上がり処刑された公卿たち。一方はその後朝廷と武家政権の地位が逆転し、鎌倉幕府の基礎固めがなされます。一方はその数年後に鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇が建武の新政を始めました。その歴史のターニングポイントの時期に、菊川を前にして二つの詩・歌が詠まれ残されているわけで、なんとも哀れで切ないですね。
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