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『吾妻鏡』によれば貞応3年(1224)6月13日(西暦1224年7月1日)に北条義時が亡くなりました。死因は脚気のうえに霍乱(急性胃腸炎か)を併発したとあります。その時、北条泰時は京都にいましたが、知らせを受けたのは6月16日。翌日には京都を出発したようですが、鎌倉に到着したのは26日。二七日の仏事は既に終わっていましたが、泰時が自宅に戻ったのは翌日です。28日には、政子から北条時房・義時の二人に対し「将軍頼経の後見として、武家の事を執行せよ」との沙汰を受けています。その場には、大江広元(出家して覚阿)もいて、そのことは遅すぎると意見しています。どうも鎌倉内に噂がたっていて騒乱の気配あるとのこと。それは泰時が弟政村らを討伐するために下向してきたというもの。義時の後妻伊賀の方が、身内の伊賀光宗兄弟とはかって、娘婿の一条実雅を将軍とし、その後見の執権に実子である政村を立てようとしている動きに対してです。
7月になっても収まらず、光宗兄弟がしきりに三浦義村の許に出入りしている様子も伝わってきます。ついに7月17日の深夜、政子が単身(同行者は女房駿河局ひとり)義村邸に乗り込み談判に及びます。光宗兄弟との密談の動きは何か。承久の乱後の平和の世になったのは誰のお陰か。関東の棟梁は泰時と決めている。貴方と政村は親子(烏帽子親)のように親密だが、何か談合の疑いはないか。政子は義村に申し開きしろと迫りました。政子の気迫におされて義村は、政村には全く逆心はなく、光宗兄弟が謀ったことであると白状せざるを得ませんでした。結局義村は泰時に対して二心なく仕えると釈明し、一条実雅は京都に戻され越前に配流、光宗は政所執事を罷免され所領は没収、その後、8月末には伊賀の方は伊豆に蟄居、光宗兄弟は流罪となり、程なくことは収まりました。また泰時の弟の政村はお咎めなし。貧乏くじを引いたのは、伊賀の方の娘の婿で一条能保(源頼朝の妹の夫)の子供である一条実雅(西園寺公経の猶子でもある)かもしれません。三寅(のちの頼経)とともに鎌倉に下向したのですが、自身が将軍になる気持ちがあったかどうか・・・。
この一連の動きに対して『鎌倉殿と執権北条130年史』(岡田清一著 角川文庫)の岡田氏によれば、自分の実子である政村を次の執権にしようとした義時の相続人である伊賀の方の考え方は、義時の遺言状がないことからありうるとしています。それ以上に、泰時・時房を三寅の後見人にしようとした政子の行動に注目すべきでしょう。単身、三浦義村邸に乗り込んだ姿には、私の目の黒いうちはあんたに勝手なことはさせないぞという、並々ならぬ決意・気迫が感じられました。
前回のブログでは、死ぬ間際の政子に「出家したいと」愚痴った泰時の姿を書きました。何と言っても政子あっての泰時ですが、逆にそれほどまでに泰時を義時の後継人にしたかった政子の思いは・・・?早くからその器量を見抜いていたのか。『神皇正統記』の北畠親房の文章をもう一度読んでみることにしました。
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