宝戒寺の近く、東勝寺橋を過ぎ、東勝寺跡の奥に腹切やぐらがあります。ご存じの通り元弘三年(1333)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより北条高時をはじめとする北条一族が自害した場所です。文治元年(1185)から150年近く続いた鎌倉幕府はこの日をもって滅亡しました。
現在この腹切やぐらは崩落の危険があるため近づくことができませんが、やぐらの中には供養のための石塔や塔婆が安置されています。その塔婆のなかに苅田式部大輔篤時 高倉健の名前を見つけることができます。2014年に亡くなった高倉健さんは北条篤時の子孫であることを誇りとし、この腹切やぐらに塔婆を納めていたようです。
さて北条篤時とはいかなる人物か?調べてみますと、苅田式部太夫篤時または尾張四郎篤時の名で実在していました。確かに『吾妻鏡』の文永三年(1266)七月の記事に尾張四郎篤時の名前がありました。どんなことかといえば、鎌倉幕府の5代将軍であった宗尊親王が将軍を廃され、京都に送還されますが、その供奉人の一人に名を連ねていました。史実に登場するのはそれだけなのですが、この記事は治承四年(1180)からはじまる『吾妻鏡』の最終ページ、最後の記録でした。なんとこれは・・・。やはり「健さん」はなにか持っているな思った次第です。
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