人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --安達景盛と明恵上人ーー

2021-02-19 12:35:37 | 日記

『明惠上人伝記』(巻下)は「秋田城介覚知、遁世して梅尾に栖みける比」という文章ではじまります。とはいっても何のことか分かりませんので、訳者の〈注釈〉に頼ることになります。この秋田城介覚智は、頼朝に信任せられた安達藤九郎盛長の子で安達景盛だとしています。安達盛長は鎌倉殿と十三人の一人なのでご存じかと思います。さてこの安達景盛は実朝の不運な死に遭遇し出家して名を覚智に改めました。『明惠上人伝記』では覚知。『吾妻鏡』では覚地ですが、訳者は覚智が正しいとしています。その後、承久の乱の時に逃げ込んだ敗残兵を捕まえるために高山寺に行き、匿った明恵上人を掴まえて北条泰時のいた六波羅探題まで連れてきました。この話は既に紹介した通りですが、安達景盛はその際に明恵上人と接触して深い感銘を受け、終生(?-1248年)、指導者として上人を仰ぎみました。

さてこれからが本題です。この安達景盛の娘が北条時頼の母である松下禅尼。景盛の子である安達義景の娘が北条時宗の正妻の覚山志道。この二人の女性については鎌倉の歴史を勉強している方なら良くご存じでしょう。ただ私がこれまで疑問だったのが、『円覚寺』という冊子に書かれていた覚山志道が円覚寺一番奥、今、黄梅院があるところにあった三重塔(華厳塔)を建てたと書いてあったこと。それに覚山志道が開いた東慶寺が何故に駆け込み寺になったかということです。覚山志道は時宗と結婚する前には松下禅尼と一緒に暮らしていました。そして松下禅尼は父である安達景盛(そのころは覚智でしょうか)の影響を強く受け、信心深かったことは容易に想像できます。その覚智は明恵上人に師事していたとすれば、明恵上人の思想を親子三代にわたり受けついでいたとしても不思議ではありません。そうだとすれば、円覚寺の華厳塔、東慶寺の不幸な女性たちを世の横暴から救おうとした考え方が容易に理解できました。この明恵上人のことをもっと学ぶ必要がありそうです。

写真は覚山志道が造った東慶寺。東慶寺のことは何度もこのブログで紹介していますが、実に心が落ち着く場所です。

 

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