人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

季節の花 ーー鎌倉文学館のバラ園ーー

2021-05-16 15:22:45 | 日記

昨日の午前中は晴れていましたので鎌倉文学館のバラを見に行きました。入口の開花情報では2割。例年なら今頃は満開の筈。ちょっと期待外れでした。園内の係の方に伺いましたら、今年は暑さのため早く咲いた花とこれから咲く花にバラつきがあるようです・・・気まぐれな「バラ」ですからとの洒落とも慰めとも言えない答えが返ってきました。それでも青い空、眩い新緑、そしてピンクや深紅、黄色の可憐なバラの花と爽やかな5月の風。園内は人もまばらで開放的な空間でのひとときを楽しめました。

また館内では特別展「作家のきもち」が開催中で鎌倉ゆかりの文豪の書簡が展示されていました。鎌倉文学館ならでは企画展です。夏目漱石、川端康成、三島由紀夫、堀辰雄、与謝野晶子、吉屋信子などの手紙が展示してありました。中でも興味をもって見たのが、正岡子規から夏目漱石に宛てた手紙です。かなり長い筆書きの文章を理解するのは困難ですが、何か子規の気持ちが伝わってくる手紙です。子規の手紙のような筆を使い書いたさらさらと流れるような文字そして文章は、手紙を受け取った読み手にとっても水が流れるように脳に吸い込まれていくのではないかと・・・。そして最後の部分では疲れ果て乱れた文字で「乱筆ご容赦」と書くのもご愛敬。改めて手紙を書いた作家のきもちがわかる様な気がしました。

現代人はパソコンで文章を書いたり、手書きでも横書きで書いたり、ボールペンや少しこだわった人なら万年筆で書きますが、筆を使って手紙を書かなくなったのは何時の頃からでしょうか?特別な人に筆で書いた文章の手紙を送っていたら人生が変わっていたかもしれませんね。これは妄想が過ぎたようです。ないものねだりでした。

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鎌倉を知る ーー鎌倉大仏の企画展開催中ーー

2021-05-15 13:56:50 | 日記

鎌倉市扇谷に鎌倉歴史文化交流館があり、現在、同館で7月17日までの会期で「鎌倉大仏ーみほとけの歴史とまぼろしの大仏殿」という企画展が開催中。これは見逃せないと出かけました。展示室ひと部屋に鎌倉大仏の造立から明治時代までの歴史がコンパクトにまとめられており(ハンドブックあり)、興味ある方は是非足を運ぶことをお薦めします。そこで私が興味を持った点を紹介します。

まず大仏の鋳造技術。「鋳操(いからく)り」という大仏をパネル状に継いで鋳造する技術で造られているとのこと。体は7段、頭は正面で5段、後頭部で6段の継ぎ目がありますが、これは大仏の胎内に入れば確認できます。「鋳操り」という言葉ははじめて聞きました。原材料は青銅。科学的な調査により、銅銭を材料とした可能性を指摘されているようです。そして今回の企画展でこの大仏を造るには対宋貿易の影響が非常に大きいと思いました。北条泰時の時代の和賀江島の築港とその後の六浦の港や朝比奈切通の整備よる宋銭の大量輸入。宋は元に攻め込まれ宋銭が大量に余ったそうです。さらに栄西や蘭渓道隆、陳和卿などがもたらした宋風文化影響などですね。

もう一つは、まぼろしの大仏殿の話。発掘調査で礎石が発見されたこと、『吾妻鏡』・『東関紀行』・『太平記』などの資料で大仏殿があったことは間違いなく、その規模は南北二十間(約38m)、東西二十五間(約45m)だったのが分かっています。今回の企画展では、湘南工科大学が制作した大仏殿のCG画像を体験しました。ただ奈良の大仏や宇治平等院の阿弥陀如来像は建物の外から大仏さまのお顔を拝むことができるように正面に窓が付いていますが、私は鎌倉大仏の大仏殿も多分そうなっており、そのお姿は海上からも見えたかもしれないと妄想しています。大仏殿の建物がいつ無くなったかは不明ですが、『太平記』第十三巻に建武二年(1334)八月三日に大風が吹いて、その天災を逃れようとした北条時行(中先代の乱)軍兵500人が倒壊した大仏殿の下敷きになって死んだという文章がありました。発掘調査で瓦が出土しておらず、大仏殿は瓦葺きでなく檜皮葺きのため台風に弱かったのかもしれません。私は立派な大仏殿がなくても、真っ青な空の下でみる露座の大仏が好きですね。

 

 

 

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季節の花 ーーミズキ(水木)ーー

2021-05-12 19:47:06 | 日記

広町緑地でミズキの花が満開だということは先日のブログで紹介しました。ただ遠くの山肌に咲いていたり、自分の背より高い位置に花が咲いていることがほとんどで、実際はどんなふうに咲いているのか興味がありました。たまたま広町緑地の木道を歩き七里ガ浜の住宅地に向っていましたら、ちょうど眼の位置に花がありましたのでパシャリ。ちょっとピンボケ気味ですが上から花を見ることができました。小さな白い花弁を散房花房につけている様子がわかります。このミズキは水木と書きますが、名前の由来は早春に芽吹くときに大量の水を吸い上げるからだとか。花言葉は成熟した精神とか耐久と言うらしいです。どうも花のイメージとはずいぶん違いますのでピンときません。

一方、一青窈のハナミズキに歌われている花ミズキは同じミズキ科でもアメリカヤマボウシと言われるもので別の種だそうです。こちらは歌詞にある通り、薄紅色をした可憐な花をつけます。この北アメリカ原産の花ミズキの方がポピュラーになっており、日本のミズキは華やかさに欠けるのか直ぐに名前が思い出せない花の一つでもあります。それでも一個一個の小さな花弁は健気で可愛らしく、それが集合して木全体が白く彩られた姿は見事であり、広町緑地の目玉の木の一つになっています。

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ポルトガルワインを試す ーー⑮レゲンゴ・デ・メルガッソ・アルヴァリーニョーー

2021-05-12 09:02:27 | グルメ

今回はレゲンゴ・デ・メルガッソ・アルヴァリーニョという白ワイン。メルガッソは地名でポルトガル北部のミーニョ川に接するヴィーニョ・ヴェルデ地方にある村。村の北側にスペインとの国境の川ミーニョが流れ、すぐ東側も陸伝いの国境です。いわばポルトガル最北にあるワイナリーということになります。このメルガッソ村をGoogle Mapで検索してみますと航空写真でミーニョ川、ブドウ畑に囲まれた街並みを確認できました。

さてこのワインのですが、ブドウはメルガッソの原石とも言えるアルヴァリーニョを100%使っています。カタログには、ボリュームとエレガンスが楽しめる香り高い白。桃やリンゴのアロマ、ミネラル感も楽しめる、滑らかな味わいのアルヴァリーニョと書いてありました。価格は2,090円(税込)。これまで飲んだ中ではじめての2,000円越えのワイン。そして少し細身のスマートなボトルは贈り物にしても喜ばれそうです。飲んだ印象は、さらっとした白ワインが多い中、カタログの通りボリュームと深みが感じられ、私のなかでは高評価の白ワインでした。

ワイナリーのあるヴィーニョ・ヴェルデ地方はミーニョ川を渡ればスペインの地。あの巡礼の旅の終着地で有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは100㎞位の行程です。キリスト教徒ではないのですが一度は行ってみたい場所の一つ。これならポルトガル旅行のついでに少し足を延ばせば行ける距離です。今は机上での妄想旅行しかできませんが早くコロナ禍が終息するのを祈るばかりです。

 

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鎌倉を知る ーー源実朝と鴨長明ーー

2021-05-09 14:55:30 | 日記

今日、いつものように広町緑地を散歩していたらカルガモの夫婦に出会いました。折角なので鴨を題材にした鎌倉らしいブログを書きたいと思いついたのが源実朝と鴨長明の出会い。鴨長明は誰でも知っている『方丈記』の作者。あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・。」の文章は暗記させられました。そして鎌倉の歴史を勉強した人なら『吾妻鏡』建暦元年(1211)十月十三日の条を覚えているはずです。

鴨社の氏人菊太夫長明入道雅経(飛鳥井)朝臣の挙によって、この間下向す。将軍家(実朝)に謁したてまつること度々に及ぶと云々。しかうして今日幕下将軍(頼朝)の御忌日に当る。かの法華堂に参りて念誦読経の間、懐旧の涙しきりに相催し、一首の和歌を堂の柱に註す。「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を拂う山風」

そこでこの源実朝と鴨長明の出会いの顛末が気になるところですが、太宰治が『右大臣実朝』(新潮文庫『惜別』に収録)で描く鴨長明の評価はあまり芳しくありません。

わざわざ故右大将さまの御堂にお参りして涙を流され和歌などおしるしになって、・・当将軍家への、あてつけのようで、・・あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切ったようなご老人から見ると、当将軍家のお心があまりにお若く無邪気すぎるように思われ、・・・。それから二、三カ月経つか経たぬかのうちに「方丈記」とかいう天下の名文をお書きになったそうで、・・・。まことに油断のならぬ世捨人で、あのように浅間しく、いやしげな風態をしていながら、どこにそれ程の力がひそんでいたのでございましょうか、・・・。

そこまで書くかと言った文章です。さてこの鴨長明が鎌倉に下向した時期ですが、五味文彦先生の『源実朝』を見ますと、良く調べてみれば建暦二年(1212)十月ではないかと推測しています。鴨長明が『方丈記』を書き上げたのは建暦二年三月。『方丈記』を書き上げてから鎌倉に下ったとしています。実朝の和歌にも鴨長明に倣った歌がありますので、実際は実朝自身、鴨長明をリスペクトし、その影響を受けたと思われます。もしそれが事実だとすれば太宰治の評価は全く違っていたかもしれません。

もともと『吾妻鏡』は年号の間違いが多いのですが、太宰の文章を鵜呑みにして鴨長明像を作り上げた人が多いとすれば、鴨長明にとってはとんだ濡れ衣でしょうね。すこし気の毒な気がします。

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