昔の街のことが知りたい人がいるらしい。
何かの資料にするのだろうか。
スリスリに「何か知らない⁇」と訊かれたけれど、「何か」が溢れていて困る。
何しろ学生時代を除いてずーっと暮らしている自分の街だ。
私の実家は大通りに面した角地にあったが、大通りとは云うものの未舗装で土埃が舞っていた。
家の裏玄関近くに井戸があり、最初はテコの原理を使った釣瓶(つるべ)だったが、滑車式になった。
時々テレビの時代劇で観る方式なので知っている人が多いと思う。
次にはそれも手押しポンプ式に変わり、表通りにどう云う仕組みなのか分からないが専用のレバーを差し込んで捻るとドーッと水が出てくる「水道」が通って井戸は消えた。
自宅に水道がひかれるまでは、毎日水を運んだと思うけれど私の記憶からは欠落している。
家の中に水道がひかれ台所で蛇口を捻ると水が出たのを見て大喜びしている母の姿を覚えている。
横の通りを隔てた所には、味噌か醤油の大きな樽が並んだ大きな倉庫のような建物があった。多分製造していたのだろう。強い臭いと暗い建物だけが微かな記憶に残っている。
その倉庫が消えてモダンな雰囲気の喫茶店が出来たのは私が高校生の頃だ。
当時、校則で入店して良い喫茶店が指定されていたが、隣家だからと隠れて何度もコーヒーを飲みに行った。
薄暗くて高級そうなシートに大人の雰囲気。それに加えていつも笑顔の美人のウェイトレスがいた。
私は、美人と云うタイプが苦手だったので彼女に魅かれて通ったので無いことは確かだ。
店名は何とか思い出せた。確かチロルだ。
父が経営者に、何処からこんな美人を探してきたのかと訊いたら「街を歩いていて美人を見つけたら声を掛けて交渉する」とか言っていた。
そのチロルが閉店して反対側の、まさに実家の壁を隔てた場所に違う喫茶店ができた。
通りからアーチ状の草花に囲まれた狭い通路の少し奥に作られた喫茶店だったが、ここへも時々通った。
店名が全く思い出せずに諦めたところで家内が「門」だと教えてくれた。
彼女がなぜ店名を知っているのか不思議だが、それより彼女の記憶力に舌をまいた。
前の通りが未舗装だった昔の時代に戻るがその頃自動車と云うものを見たことが無く、自転車にエンジンを付けたバイクの前進のようなものでさえ珍しく、そのエンジン音に驚愕した。
まるで江戸時代のようだが当時の田舎で運搬の主力はリヤカーか馬車。
家の前を荷馬車が通り馬糞の芳しい(かぐわしい)匂いを何回も嗅いだ。
芳しいと書いたが、馬糞の匂いが少し好きだ。
だから尻尾がヒョイと上がって付け根からポロンポロンと湯気の出ている饅頭のような「出来立て」が出て来た時には嬉しくて駆け寄った。
だからと云って人間の糞は嫌いだ。
実際に嗅いだことは無いけれど、どんな美人のものでも芳しいとは思わない。
私にそんな趣味は無い。
断じて……無い。