温故知新~温新知故?

音楽ネタが多いだろうけど、ネタのキーワードは、古きを訪ねて新しきを知ると同時に新しきを訪ねて古きを知るも!!

『LEADERS リーダーズ』を見た~無原動力って。トヨタはチャレンジングな会社だったんだ~

2014-03-25 22:54:36 | 映画、TV、ミュージカル、エンタ
昨日もホテルに帰ったのは22時30分位、そして、飯食って、風呂入って、ちょっとメールチェックしたり、TV見たりして、寝たのは午前1時30分だった。今日は会社で飯食って、皆はビールを飲むといってバーへ入っていったが、その誘惑に負けず、休肝日!。

さて、土曜日曜と話題のドラマ『LEADERS リーダーズ』を見た。半沢直樹に出ていた俳優が多いのでその焼き直しという批評もあるようだが、私は結構楽しめた。素人の皆さんにはおもしろくなかったかもしれないけど、鋳造に挑むエピソードは、なかなかマニアックで、それが仕事だった私には大変興味深かった。よく描いていると思った。
2夜連続大型ドラマ『LEADERS リーダーズ』| TBSテレビ
各シーンに出てくるいわゆるクラシックカーも素晴らしい出来だと思った。そういうクルマや街の様子も楽しめた。

また、みなさんはどうかわからないけど、私は以下の本だと思ったけど、その本でトヨタはすごくチャレンジングな会社だったということは知っていた。車の工場作るなんて、アホじゃないか、つぶれるに決まっていると言われていたようだ。今の堅実な会社の代名詞のようなイメージとは大違いだ。
トヨタをつくった技術者たち。 - Google ブックス
このTVドラマでは、それらがよく表されていた。多くの人はトヨタの協賛だから、トヨタにいいように作ったフィクションかと思うだろうけど、下にいくつか紹介するけど、本当らしい。
トヨタウェイ 進化する最強の経営術
トヨタウェイの基礎を固めた豊田英二の決断
 昭和24年の暮れ、当時のトヨタ自動車工業は約2億円の約束手形の決済の見通しが立たず、実質的に倒産同然の経営不振に喘いでいた。豊田自動織機社長、石田退三の努力により、ドタン場で銀行団の緊急融資が実現してなんとか倒産は回避されたが、銀行団はトヨタ再建策を策定して責任を追及した。その結果、豊田喜一郎は社長の座を追われ、販売専門の別会社(トヨタ自動車販売)を分離独立させることとなった。しかもトヨタ自販はGHQの占領政策から、資本関係をもつことができず、トヨタ自販社長に内定した神谷正太郎は、独自に資本金をかき集めて見切り発車することとなった。こうして資本関係のない生産会社と販売会社という世にも奇妙な形がスタートした。

トヨタウェイ 進化する最強の経営術
国産乗用車開発に意地を貫いた英二は、続いて年産6万台の世界最新レベルの乗用車専門工場を建設することを決断する。発売後2年経ったクラウンが年産2万台であったから、いかに壮大な構想であったかがわかる。昭和33年に入ると、すぐに新工場設計の青写真が英二の総指揮のもとに作られた。建設費の総額は80億であり、これは当時のトヨタ自工の資本金の4倍に達した。

石田退三や神谷正太郎という脇役とはいえないくらいの神様のような人がいたおかげて、結果的には今のトヨタになるまで発展したんだろう。豊田喜一郎ひとりでは、ここまでにはならなかったんだろう。
下のサイトは、対談なので生々しい話が、更に臨場感を醸し出す。
トヨタをつくった技術者たち
中村:4気筒の2.5リッターぐらいかな。
  そのエンジンの図面を描いていたら、まだ図面が全部完成できてなく、部品の寸法公差や強度など細かい点を検討してないのに、僕らの部長も兼務していた営業部長が「できた図面を早くだせ。次々と造って、悪かったら直せばいい」と言う。

中村健也 - Wikipedia
それがきっかけで1952年1月、車体工場次長職の時に、当時の技術担当取締役であった豊田英二から『今度開発する本格的な乗用車の開発責任者になってもらいたい、』と言われ、これに対し、中村は『これは、大株主[1]はご承知でしょうか?』と尋ねた所、豊田英二は『それは当たり前だ』との返答を受け、中村本人もそれまでの生産担当関連の職から開発責任者への異例の抜擢を受ける形で承諾した(正式な辞令及び役職は1953年5月、技術部、車両開発主査)。

なかなか面白いドラマでした。楽しめました。また、一番のおおもとである豊田佐吉は、凄いアイデアマンだったようですね。無原動力、いいね。