僕の母は7人兄弟だ。
本当は8人兄弟だったけれど、一人は幼い頃、百日咳で亡くなってしまった。
百日咳というのが医学的にどういうものかしらないけれど、祖母はいつも子供を一人百日咳でなくしたと言っていた。
そのなくなった子のことを祖母は終生気にかけていた。
そして、知り合いの息子さんとか、娘さんとかがなくなったという話を聞くと、口癖のように「死ぬ順番が親子でぎゃくになるほど悲しいことはない」と言っていた。
ときには、親子で死ぬ順番が逆になる話を聞いて祖母は自分の経験を思い出して涙ぐむこともあった。
まあそれはともかく、その幼くしてなくなった一人を除けば母は7人兄弟で育った。
なので、僕にはその結果として、叔父、叔母が多い。
そして、僕は父が船乗りで家をあけることが多いということで、母の実家で母方の祖父 祖母と一緒に暮らしていた。
まだ、結婚前の、母の弟、妹とも一緒に暮らしていた。
また、東京から帰省してくる母の姉の旦那さん、つまり僕にとっては義理の叔父、などと接する機会も多かった。
母の、一番上の姉の旦那さん、 つまり僕の義理の叔父はなぜかぼくのことをよくかわいがってくれた。
ちょっと、いろんな整理をしていたら、僕が結婚したときにその義理の叔父に送った手紙のへんじが出てきた。
僕は、結婚の披露宴をしなくて、お宮で結婚式をあげただけだったので、そのような失礼を詫びるとともに、結婚の報告の手紙を叔父に送った。
僕が、手紙の整理をしていて出てきたのは、その僕の手紙に対する叔父の返事だ。
叔父の著作権、およびプライバシーのことでそれをブログにかいていいかちょっと悩んだけれど、とても感動したので、もう10年ほど前になくなった叔父もきっと許してくれるだろうと思って僕のブログに書くことにした。
僕が整理していて見つけたのはこんな手紙だ。
「拝啓
おめでたく懐かしいお便りをお寄せいただき 先ずはお慶びを申し上げます。
久しくご無沙汰しているうちに 大阪での新家庭が徐々に形をなしていく様子が、詳しいケンさんからのお便りの中で、よくわかりました。
結婚の形式は時節により 個人の信条により さまざまなもので 大変気を使って 事情をお知らせいただきましたが いかにもケンさんらしく、また伴侶となられた〇〇さんの人柄もしのばれて これからの末長い二人三脚の旅を 健康で楽しくあれと応援申し上げます。
関西方面に旅するときは ひと声かけてご案内役をお願いするかもしれませんよ。冗談と本音が半分ですからあまり気にしないでくださいね。
ともかく平成不況のさなかです。明治維新の前後や、1945年敗戦前後のような 次へ変革が蠢(うごめ)いている時代です
若いあなた達が何かを築き上げる力を出して 未来を明るくされることを切に望んでおります お祝いの品をお届けしたいと思いましたけれど 好みのこともあり そうしたものの一部に充てていただけたらと思い 僅かな金員を同封しました お納めください
ご多幸を念じつつ 右ご一報申し上げます 敬具
1998年 5月20日」
※亡き叔父のプライバシーに配慮して、固有名詞などは省略しました。
叔父は大正14年生まれで、それゆえ、昭和の時代は昭和の年数と叔父の年齢は一致していた。
昭和57年には叔父は57歳という具合に。
「僕の年齢は、昭和の年数と同じなんですよ」というのが叔父の口癖の一つだった。
なので、叔父は旧制教育を受けた世代の人だ。
こうして 叔父の手紙を読み返してみて、今、こんな丁寧で愛情のこもった手紙を書く人がいるだろうかとしみじみと思う。
うごめくを蠢くと漢字表記にしているところが叔父らしい。
春に虫2つで、本当に、うごめくという様子が漢字の形の中に現れているようでいかにも叔父らしいなと思う。
僕よりも37歳も年上なのに 僕に敬語で手紙をかいてくださっている点も本当に叔父らしい、涙が出そうになる。
あと1945年の終戦と書かずに1945年の敗戦としっかりと敗戦と書いているとことも何気ないことだけれど、叔父の人柄が偲ばれる。
ありていに言えばあの戦争で日本は負けたのだから、敗戦とはっきり表現されている叔父の言葉遣いをしのぶと、本当にいま叔父が生きていたら、ますます、あいまいな言葉が反乱している今の時代をどのように感じるだろうと思ってしまう。
明治維新の前後や 1945年敗戦前後のような次の変革と1998年の叔父の手紙に表現されているけれど、もう、いま2021年という時代は、このような叔父の表現に即せば、明治維新の前後や、1945年の敗戦前後に匹敵するような、混迷の時代と言えるようにも思えてくる。
若い君たちが時代を明るくしてくれるようにと叔父の手紙に書かれているけれど、その当時は僕も若かったけれど、今は、もう若くない。
そして、未来を明るくできたかというとそうでもないように思えてくる。
残念ながら、妻とも、別れることになってしまったし、、、。
でも、懐かしいなと思う。
叔父からはいろんなことを教えてもらった。
そのなかでよく記憶に残っていることが
「ケンちゃん、男が一人暮らししようと思ったら、毎日同じものを食べることをいとってはだめですよ」という言葉。
本当に、この言葉は折に触れて僕の救いになってきた。
今も、毎日、同じようなものばかり食べている。
ただ、その同じものに気を使うようにしているけれど。
発酵食品を多くするとか、魚類を多くするとか そういうたぐいのことだけれど。
あと、叔父の口癖のひとつが
「僕は、メガネをかけたまま食事をするのが苦手なんですよ。曇っちゃうから。食事のときはメガネをはずします」というもの。
今、マスクで、眼鏡が曇ってしまうと、叔父のこの言葉を思い出す。
あるとき僕の母が叔父に「お兄さん、若い頃は何を考えてましたか?」と食事の席で訪ねたことがある。※叔父は僕の母からは義理の兄にあたる。
すると叔父は答えた
「若い頃は、死ということを考えてましたね。戦争の拡大の時代が、青年期に当たってますから、、、」と。
その言葉を聞いて、その場に居合わせた僕の父と母、そして僕は、おおきくうなずき深く考え込んでしまったことを思い出す。
いまも、コロナである意味、みんな、死ということを考えている時代かもしれないし、あまりに熾烈な経済競争で、身の安全ということも考えている時代だと思う。
そういう意味では、叔父の言葉と今の時代はかぶる点も多いように思う。
叔父の世代の人が精一杯、生きたように、僕も、僕なりに精一杯と思うのだけれど。
あまり精一杯と思いすぎるのもよくないのかもしれない。
どこかで、なるようになる、とおもって、気持ちにゆとりをもたせておくのも大切、とういうことも同時に思う。
それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。