ケンのブログ

日々の雑感や日記

知名度について

2021年06月29日 | 日記
今日の読売新聞の編集手帳にこんなことが書いてある。

“”
コロナ禍で休止中だが、日本に来る海外客には地域により意外な人気訪問地があるという。イスラエル人は第二次大戦中、危険を冒しユダヤ人にビザを発給した外交官 杉山千畝の岐阜県。タイや台湾の人が猛烈な地吹雪体験に訪れる青森県などである。“” 以下略

これを読んだ瞬間、「あれ、僕、岐阜県の出身だけれど杉山千畝って知らなかった」(恥ずかしながら)と思った。

要するに、そこに興味がないから知らなかったのだと思う。

まあ、イスラエルといえば、戦争していることが多いから、野蛮な国のように思われているけれど、イスラエルフィルハーモニーというオーケストラは、とてもうまいし、世界に先駆けてコロナワクチンの接種を進めていった、知られざる先進国ということは知っていたけれど、、、。

あと、イスラエルがなぜ あんなに戦争をしているのかということがどうもわからなくて、イスラエルがからむ戦争のニュースについていけないので、ちょっと調べてみたら、問題は旧約聖書の時代にまでさかのぼってしまうような、長い、長い、歴史の流れがからんでいるので、もう、調べる根気がうせてしまい、未だに、イスラエルの戦争の問題はわからないままでいる、、、。

ちょっと話が横道にそれてしまったけれど、自分が岐阜県の出身なのに杉山千畝をろくに知らなかった、しかし、イスラエル人にとっては、日本に来たときその故郷、岐阜県を訪れたくなるくらい、まあ有名なのだろうか と思った。

そして、有名、無名って、いったいどういうことなのだろうと思った。

それに興味がある人にとっては有名でも、興味がない人にとっては無名ということは世の中にいくらでもあると。

僕も知名度ということに関する執着というのは、あるので(有名になりたい願望というよりも有名な人をつい、羨ましいと思ってしまうという執着が僕の場合は強いように思う)、有名、無名と言っても、興味のある人にとっては有名でも、そうでない人にとっては無名、と思うと、なぜか知名度ということに関する執着心が少し楽になるように感じる。

僕自身は有名な会社に勤めていなかったけれど、僕の父は、日本の3大海運会社の一つと言われる○○汽船という会社に勤めていた。

それで、その父に、「今、○○汽船の社長って誰?」と聞くと。

「いやあ、もう自分が会社をやめてからの社長は興味がないから知らんわ」という答えが帰ってくる。

まあ、その答えを聞いて、僕も、まあ、そんなもんかと思ってしまう。

僕が勤めていた会社の上司に「ナカシマさんのお父さんって、どこに勤めてたの?」と聞かれたことがある。

その時「○○汽船です」と正直に答えたら

「それって、本四連絡橋ができたときにつぶれた会社ちゃうの?」と聞かれたので
「いえ、父が勤めていた会社は、主に国際航路の会社でしたので、本四連絡橋の影響はおかげさまで、それほど受けませんでした」と答えた。

そして、思った。上司は四国の出身で、今は明石に住んでおられるので本四連絡橋に興味があるんだろうなと、、、。

まだ、僕が会社に入社して間もない頃、ある人に、後にメジャーリーグでも活躍した長谷川滋利投手の話題を振られて、「ごめんなさい、僕、その人知りません」と正直に答えたら。

その方は「パ・リーグの新人賞とりましたやん」とおっしゃって、不機嫌そうな顔になってしまった。

それで、僕は申し訳ないことしたなと思って、長谷川滋利投手のプロフィールをネットで調べた。 この次からは話題についていけるようにと思って。

すると長谷川滋利投手はその不機嫌になってしまった人と出身地が同じということがわかった。

ああ、不機嫌になった理由はこれだな、と思った。

でも、自分と同じ出身地の選手を話し相手が知らないということで不機嫌になってしまうなんてなんて度量の狭い、、、とも思った。

その後、何年かその人と会社で接していく中で、その人は「課長も言ってましたやん」とか「これは僕が部長から直接教わりました」とか、そういういわゆる 虎の威を借るタイプの発言が多いということに気づいた。

一事が万事というか、他人が自分と同郷のピッチャーを知らないと不機嫌になってしまうのと、部長や課長の威を借るのはいわば同じパターンの心理なのだなと思った。

ところで、今日の読売新聞の人生相談のコラムには、兄や、結婚していく周りと自分を比べて、落ち込んでしまう30代の女性の相談が載っている。

それを読んで、30代ってそういう年頃だなと、しみじみと僕自身も思う。

僕も30代の頃、「あいつが書いた本、売れてるらしいぞ」とかいう話を聞いて、あせりを感じたり、羨ましいと思ったりしたことがあった。

ところが60歳に近くなると、そういう気持ちは、だんだん小さくなってくる。

それは、なぜかというと、30代の頃に、「あいつの本売れてるぞ」とか、言われていた本がすでに絶版になってしまっていたりするのをこの年令になると、いろいろと経験してくるからだ。

いまも、「ポストコロナの世の中」とか、そういう感じのタイトルの本が広告によく出ているけれど、そういうタイプの本って、賞味期限があって、それをすぎると、もう売れなくなってしまう。

そういうことをある程度長く生きて経験してくると、ただ、本を書いたから羨ましいという気持ちはなくなるというわけではないけれど、30歳代のころに比べるとずいぶん小さくなっている。

知名度とか、そういうことに関する執着を離れて生きていければいいのにとは思うのだけれど、若い頃に比べると、そういうものは相対的に低くなったけれど、なくなったわけではない。

いろんな執着を離れて生きていければいいとは願っているのだけれど、、、。

それはともかく、いちにちいちにち、健康で無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。