ケンのブログ

日々の雑感や日記

ハロー グッドバイ

2021年06月09日 | 日記
ビートルズの中期の頃のヒットナンバーにHello Goodbyeという曲がある。


歌詞を日本語に訳すとおよそこんな歌詞だ。


“”

君はイエスという 僕はノーという。

君は止まれという 僕は行け 行け 行けという。

何てことだ。


君はさよならという 僕はハローという。

なぜ君はさよならと言い僕はハローと言うんだろう。

わからない。


僕は高いという 君は低いという。

君はなぜという。僕はわからならないという。

何てことだ。


なぜ君はさよならと言い 僕はハローと言うんだろう。

わからない。“”


高校生の頃 友達にビートルズのLPを友達に貸してもらってこの歌を聴いたとき
彼女と全然、気が合わないことをコミカルに歌った楽しい歌だと思っていた。

実際、この歌はそういう歌だとは思う。

メロディも楽しく弾むようなメロディだし、、、。

しかし、僕くらいの年齢になるとこういう歌も、若い頃よりはもっと範囲を広げて聴くことができる。

彼女であるかどうかにかかわらず、同性でも異性でも、本当に気の合わない人とは徹底的に合わない。

それは、誰しも経験することだと思う。

こちらが、右と言っているのに相手は左という。

キャッチャーが外角に構えているのにピッチャーのたまが内角に行ってしまったりすることを逆球(ぎゃくだま)とうことがある。

ほんとうにことごとくぎゃくだまを返してくる人って誰にでもいると思う。

こちらがこのくらいのズルは大目に見てくれよ という気持ちで頼んでいるのに
そんなズルは許せないと言ってきたり、そういう態度をとってくる人。

逆に、こういう種類のズルだけは許せない とこちらが思っている、まさにその点でズルい人。

こちらがアドバイスなど求めていない、ただ、ちょっと愚痴を聞いてほしくて話しただけなのに、その話の内容に、おせっかい以外の何ものでもないようなアドバイスをしてくる人。

逆に、こちらがその人の個人の経験に基づくアドバイスを求めて相談しているのに
「そういうことは、やっぱり専門の人に相談するのがいいんじゃないの」と言ってくる人。


こちらが単に金額の高い低いよりも、まずは品質、そして価格は、品質に応じた適正価格を求めているのに
「こちらのほうが安いですよ」と金額の高しか考慮に入れていないようなリアクションをしてくる人。

逆にこちらが金額が低いことを第一に考えているのに、「そんな安物は結局すぐこわれて、高くつきますよ」と言ってる人。


もう一事が万事こちらが求めているのとはことごとく逆のリアクションをしてくる人。

そういう相手って本当に、異性、同性に関わらず誰にでもいると思う。

そんなとき、ビートルズのハロー グッドバイを聴いたり歌ったりすると幾分気が晴れるといういことがある。

“”君はイエスという 僕はノーという。

君は止まれという 僕は行け 行け 行けという。

何てことだ。“” と歌ってみると幾分気が晴れる。

その幾分というのが結構大きかったりする。

お釈迦様の 一切皆苦 すべては苦しみ という考えに基づけば、幾分でも気が晴れれば、その幾分が結構大きいように思う。

なにしろ、苦しいのがむしろあたりまえとお釈迦様は言っているのだから、、、。

イエスといえばノー
高いといえば低い
止まれといえば行け

ハローグッドバイではこういう対概念が並べられている。

対概念、大切なことだと思う。

音楽でもフォルテばかりだと、うるさくて嫌になってしまう。
フォルテとピアノがあるからいい。

アレグロばかりでは気分がハイになりすぎてしまうこともある。
スローな部分もあったほうがいい。

さて、いろんな対概念がある中で、僕が思い出すのは

新約聖書の最後の巻
ヨハネの黙示録に書いてある
こんな言葉

“”全能者である神、主がこう言われる「私はアルファでありオメガである」“”と。

ヨハネの黙示録は、僕にとってはとても難解な巻で、何が書いてあるのかほとんどわからなかったけれど、この「私はアルファでありオメガである」という言葉だけはなぜかとても心にとまった。

アルファはギリシャアルファベットの最初の文字。
オメガは同じく最後の文字。

なので「私はアルファでありオメガである」というのは実質的には
「私は初めであり終わりである」ということになる。

初め と 終わり という対概念。

イエスといえばノーと言ってくる人
高いといえば低いと言ってくる人
止まれといえば行けと言ってくる人

ことごとくこちらの期待とは逆の反応をしてくる人。
また、逆の反応をされるような体験。

そういうものすべてはアルファとオメガの間の出来事

初めと終わりの間の出来事

と考えると、全ては初めと終わりという全体の部分である、というふうに捉えることができると思う。

そのように捉えることで、物事や出来事からからしかるべき距離を置くことができて、幾分でも気が楽になるのではないだろうか。

そして、その幾分 というのが結構大きいことなのだと僕は思う。

それはともかく一日いちにち無事でありますように、それを第一に願っていきたい。