ケンのブログ

日々の雑感や日記

立夏も近く

2022年04月22日 | 日記
■戦争
僕はテレビを今 持っていなくて、なので、ほとんど見ない。

だから、今度のロシアの戦争もおそらくはテレビでなされるであろう劇場型の報道に接するということはあまりない。

しかし、新聞の紙面に戦争の話が毎日載っているとさすがにどんよりとした気持ちになってくる。

ここ数日 一般的には右寄りと言われる全国紙と 岐阜の地方紙を読んでいる。

そして、どちらかというと 岐阜の地方紙のほうが戦争については淡々とした書き方がなされていて、精神衛生上はこちらのほうがいいなと思ってしまう。

どのような問題でもそうだけれど、戦争に関する扱いも新聞によって温度差はあるものだなとは思う。

■立夏も近く
お菓子の店をのぞくと 鯉のぼりの絵というよりも模様を描いた箱に ひまわりサブレを入れた商品を売っている店がある。

カレンダーを見ると今年は 八十八夜が五月二日 立夏が五月五日になっている。

初夏に向かって季節が進んでいることを感じる。

一方で朝晩は結構 涼しいけれど 日中になると暑いくらいということで、あたらしい季節に身体が慣れていくのが待たれるなと思う。

■受動的な心
シューマンの交響曲を今までそれほど聴いたことがなかったけれど、この一か月くらい 聴く頻度が高くなったなと思う。

ネビル マリナー指揮
アカデミー オブ セントマーチン イン ザ フィールド
が演奏した全集を以前からもっていたけれど
今までほとんどCDの棚に眠っていた。

なぜ、聴く頻度が高くなったのだろう。

たぶん、シューマンの交響曲がもつロマンチックな特色に心が引かれているかだと思う。

今までの人生でこれだけシューマンの交響曲を聴いた一か月というのはないから、ちょっとこれは気持ちの変化だなと自分で思う。

結局 何を好きになるかというのも 能動的であるようで実は受動的であるのだろうと思う。

心の動きというのも 考えてみれば、思いたくないことを思ってしまったり、これは受動的であるなと思えてくる。

そういう受動的なものにどう対処していくかということが心の持ち方としてたいせつなのだと思う。





八十八夜 シーチキン 後悔

2022年04月21日 | 日記歌入り
■八十八夜

お店に並んでいる和菓子をちょっと見てみると 抹茶饅頭とか とにかく抹茶と名前の付くお菓子が多くなっている。

どのお菓子も抹茶を練りこんだようなお菓子だと思う。

それで、夏も近づく八十八夜がもう近いのだなと改めて気づく。

“”夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る“”

本当に、今 まさにその通りの季節だなと思う。

子供のころは 歌を歌いながらの手遊びの方に興味が行っていて あまり 歌の季節のことなど考えたことなかったけれど、、、。

今は 茶摘みの歌を歌って手遊びをしている子供はあんまり見かけないなと思う。

寂しいことであるような気がする。


この歌 二番の歌詞の最後はこのように結ばれる。

“”摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃ 日本の茶にならぬ“”

摘まなければ日本のお茶にならないよ と。

時代を感じさせる詩だけれどいいなと思う。

日本の生産物の誇りというのだろうか そういう心を感じる。

戦後は 農産物ではなく 工業製品でmade in Japanが誇りだったこともあった。

今は 安くていい品だな思うと 中国製や 東南アジア製だったりする。

日本の会社が中国や東南アジアで生産していても やはり made in Japanの時代とは違うなと思う。

何に私たちは誇りを感じたらいいのかわかりにくい時代になったものだと思う。

誇りをもってやろう と言われても一体 何に誇りをもっていいのやら。

もういちど 形のあるもの ないもの どちらでもいいから誇りを持てるものをとりもどしていきたいものだなと思う。

これからは きっと 形のないものに誇りを持つべき時代が来るような気がする。

■シーチキンは海の鶏肉

東海地方に来て 関西にいるころとは 食べ物の違ったなと思う。

鳥のささ身フレークという缶詰があって 今まで食べたことなかったけれど、シーチキンがなくて、シーチキンと同じくらいの値段で売っていたから買ったら シーチキンのような味がする。

そういえばシーチキンのチキンは鶏肉のこと そしてシーは海のこと。

つまり シーチキンというのは日本語に直訳すると海の鶏肉。

鳥のささ身フレークがシーチキンのような味 というよりも シーチキンがまるで鶏肉のような味 と言った方が順序として適切であることに今さらのように気づいた。

いまさらのように気づくことっていろいろあるものだなと思う。

もちろん 関西にも鳥のささ身フレークの缶詰は売っているけれど、東海地方の方がより目立つ売り方をしていることはきっと事実と思う。

それで、シーチキンが 海の鶏肉であることに今さらのように気づかせてもらった。

■後悔
中島みゆきさんの「後悔」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。
聴いていただければ幸いです。

僕の勘ですが、みゆきさんはきっと、ちあきなおみさんの 喝采 夜間飛行などいわゆるドラマチック歌謡と言われるものを下敷きにこの歌を作ったと思います。

歌詞の中で
「泣くほどの子供じゃなかった 引き留めるほどの自信もなかった」というくだりが好きです。

引き留めるほどの自信がなかった というのが 彼と一緒になれなかった理由だとしっかり認めているところが好きです。

他人のせいにしないで 自分がどうだったかということをしっかりと見つめる心が歌詞に表れていると思います。

「他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ、自分のしたこととしなかったことだけを見よ」ブッダ真理の言葉 岩波文庫 中村元訳より引用

僕自身も そのようでありたいなと願っています。

↓中島みゆきさんの「後悔」をカラオケDAMの音源で歌いました。

複雑な時代 オバQ音頭

2022年04月20日 | 日記歌入り
お店の中で女性同士が会話している声が聞こえてくる。

「今日って暑いんかなあ 寒いんかなあ」
「うーん 建物の中におると よくわからんわ」
「ほんとにね 建物の中にいるとよくわからないね」
「でも、私 暑いのは嫌いやわ 暑いと冷房をするからどうしても体が冷えるから
暑いより寒い方がまだ、ましやわ」

まあ、建物の中にいると空調も効いている。

おまけに 今は換気もしているから、もう何がどうなっているのか建物の中にずっといるとそれはわからないと 僕も思う。

しかし、暑いと冷房で体が冷えるから寒い方がまだましって、まあわかると言えばわかるはなしだけれど、本当に、複雑な時代になったなあと思う。

空調や換気のし過ぎで、不自然な状態になっているのかなとも思う。

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タンポポの花で綿のような感じになっているものをいくつか見かける。

綿のようなタンポポの花を見ると中島みゆきさんの「彼女の生き方」という歌のこのようなフレーズを思い出す。

「そうさ 私はタンポポの花 風に吹かれてとんでゆく
行きたい街へ 行きたい 空へ 落ちると思えば飛び上がる」

これを書いた瞬間に 八王源先生がこんな風におっしゃっていたことを思い出した。

「柳のように なびかな あかんよ」と。

その時々の流れに さからわないように ということなのだと思うけれど
そうであればいいなとは感じる。

■オバQ音頭

「オバQ音頭」 をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければ幸いです。

「キュキュキュのキュ あっそれ キュキュキュのキュ これまた」という歌詞の

「あっそれ」 と 「これまた」 は歌い手とは別の相方が あいの手の掛け声で入れるのですが、僕はこういうことなぜか一人二役でできてしまいます。

なので一人二役でやりました。

オバケのQ太郎の主題歌のB面に入っていた歌で子供のころ大好きだった歌です。

↓オバQ音頭 をカラオケDAMの音源で歌いました。

カバの京子 帰れない二人

2022年04月19日 | 日記歌入り
■カバの京子
今日の岐阜の地方紙のコラムにこんな文章が載っている。

「今年が開園140年の上野動物園には多くの動物たちがいる。ジャイアントパンダの『カンカン』と『ランラン』には公開時に2キロの行列ができたという。カバの『京子』は関東大震災におびえ、呼吸するときに鼻面を出す以外は3日目の朝まで水底に潜ったまま姿を見せなかった」と。

そうか、僕の記憶だと カンカン ランラン は田中角栄内閣の頃 日中国交正常化の記念に贈られたのではなかっただろうか。

あの頃は日本中が希望に満ちていたようにも思う。

そして関東大震災におびえ 呼吸で鼻を出す以外は水に3日間潜っていたカバの『京子』の話。

おびえるときも本能のままというところが感動的だなと思う。

私たちも、危険に臨んだりしたときは直観に頼るということをこういう時に改めて意識しておきたいと思う。

一般的な法則にしたがうことはもちろん大切だけれど、法則が通用しないときに臨んだ場合は直観が頼りになる、 そういうことは意識しておきたいなと思う。

■佐々木朗希投手

千葉ロッテマリーンズで完全試合などで話題になっている佐々木朗希投手の写真を連日新聞で見る。

今どきの若い人にあまりない ストレートな目の力を持った方だなとおもう。

さらなる活躍に期待したいと思う。

■帰れない二人
井上陽水さんの「帰れない二人」をカラオケDAMの音源で歌い、ICレコーダーで簡易に録音したのものをアップします。

聴いていただければ幸いです。

作詞 作曲 井上陽水 忌野清志郎となっています。

こういう連名の作詞作曲で思い出すのは何といってもビートルズの Lennon and McCartneyですね。

僕はLennon and McCartneyと言われてもどこがどうだかよくわかりません。

しかし 井上陽水 忌野清志郎 となっていると やはりそれは井上陽水と忌野清志郎のミックスだなということはかなりリアルにわかります。

「二人の声は震えていました」と歌詞のくだりの節回しは忌野清志郎さんなしには考えられないような気がします。

僕にとって歌詞のなかで最高の見せ場は次のくだりです

「僕は君を と言いかけたとき 街の明かりが消えました」

『僕は君を』と言いかけるのですね。

僕は君を で英語の構文分析のように構文をたどると

「僕は」 が主語で 「君を」 が目的語です

主語と目的語があれば欠落しているのは動詞とわかりますね。

欠落している動詞は何でしょう。

愛する であれば 僕は君を愛する となります。

離さない であれば
僕は君を離さない となります。

こんな風に説明するのは野暮のお手本ですね。

『僕は君を』で止まっているからいいのです。

『僕は君を』と言いかけたとき街の明かりがきえるのですね。

何かを言いかけたとき ちょっと物音がして言いそびれてしまった。

何かをいいかけたとき 明かりが消えて言いそびれたしまった 

そういうことってありますね。

映画「男はつらいよ」で寅さんが吉永小百合に後ろから
「浴衣 きれいだね」というシーンがあります。

ところがその時 花火の音が鳴ったので寅さんの言葉を吉永小百合は聞き取ることができませんでした。

花火の音が消えてから吉永小百合が寅さんに言います

「寅さん 今 なんて言ったの?」と。

寅さんは「いや 何でもないよ」と答えました。

「男はつらいよ」シリーズの中で僕は最も好きなシーンの一つです。

「僕は君を と言いかけたとき 街の明かりが消えました」という歌詞を見ると 僕はなぜか「男はつらいよ」の 今 紹介した シーンを思い出しました。

シングル「心もよう」のB面にこの「帰れない二人」は収められています。

しかし、井上陽水さんはこの「帰れない二人」をA面に推したそうです。

しかし、スタッフとの話し合いの結果「帰れない二人」はB面になったそうです。

確かに「心もよう」は名曲ですがさびで同じことをラベルのボレロのように何度も繰り返すのでちょっと冗長な気もします。

個人の感想として「帰れない二人」の方が構成が引き締まっていて、幻想的と思います。

↓井上陽水さんの「帰れない二人」をカラオケDAMの音源で歌いました。

困ったことにはなった

2022年04月18日 | 日記
何日か前に電車に乗って、若い子の中でスマホで動画を見ている方の比率がかなり多かった。

これは、学校で端末を渡したら同じようなことが起きる可能性は十分にあるなと思っていた。

まあ、僕でなくてもだれでも多かれ少なかれ思うことだけれど、、、。

そうしたら、全国の小学校で、授業中に、学校でもらった端末を見る子がかなりいるという主旨の記事が出ていた。

また、フランスの研究によると、端末をもらった子は そうでない子よりも総合的な成績は低くなる傾向がデータとして出ているということも書いてあった。

まあ、そうだろうなと思う。

新聞にはノートパソコンのような端末を使って遊んでいる小学生の写真が出ている。

ノートパソコンの画面は、学校の先生の目からは完全に死角になるから、これは先生もお手上げだろうなと思う。

先生が 注意すると切れる子もいるという。

それは わかる気がする。

僕も、仮面ライダーや      マジンガーZなどのアニメを見た直後は自分が強くなったような錯覚に陥っていた。

菅原文太や松方弘樹の映画を見た直後の観客は みんなポケットに手を突っ込んで肩をいからせて、ちょっとがにまたで映画館から出てくるというし、、、。

学校の端末で 強いヒーローの動画を見ている最中などに先生に注意されたら、自分も動画のヒーローのように強くなったような気分で先生に口答えしてしまうとか小学生なら十分にあることだと思う。

小学生の方がそういう暗示には大人よりもかかりやすいと思うから。

本当に、大変な時代になったものだと思う。

八王源先生は
「わしはねえ、授業中に教科書を机の上に立てて、教科書の内側に弁当箱を置いて、弁当を食べておったの」とおっしゃっていたことがあったけれど、まあ、弁当を教科書で隠したところで、弁当は教科書から完全に隠れるわけではない。

しかし、ノートパソコン型の端末の画面は先生の方向からは完全に隠れている。

これは困ったことだとは思う。