硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

そこにあるものは。

2013-05-04 16:20:10 | 日記
母親が我が子を2階から落とすという事件が目に付いた。此処の処このような類の事件が多いような気がします。

そこで思った事を少しだけ述べておこうと思います。

我が子を殺める。その理由は様々であるけれど、殺める動機はおそらく「私にとって不都合」だからではないでしょうか。

生んだ子の存在が母親にとって不都合なのだから、存在はそう思われた時点で否定されており、その気持ちが肥大化すれば、欲望が暴走するだけでしょう。

もし精神的に追い込まれていたら罪の意識は希薄になっているかもしれないけれど、殺意を抱くのは一瞬でも「私にとって不都合」と感じたからなのだと思う。その気持ちが少しずつ蓄積されていった結果かもしれない。

私達はこういう時「そこに愛はあるのか?」と言う問いかけ方をします。

我が子ならば「愛がある」はずだと。

でもです、私達が日ごろからよく見聞する「愛」とはいったいなんでしょう。

jpop等でもよく歌われる「愛」。それが永遠であり不変であるならば破綻しないはず。

でも、離婚しますよね。慰謝料も請求しますよね。永遠ではなく変化するものなら「愛」とは言えないのではと思うのです。

その時「愛が冷めてしまった。」という言葉をよく聴きます。でも「愛」は永遠であり不変なら「覚める事はない」でしょう。

屁理屈かもしれませんが、よくよく考えるとそういう事ではないかと思うのです。そこから導き出されるのは、私達は「愛」という言葉を記号や印象位にしか分かっていないという事です。

もし、イエスの説かれた「愛」というものを理解したら、「吾はイエスと『同視座』にある」と思うでしょう。

それが傲慢であり驕りなのだと思う。

もし誰かが「私がイエスである。」と宣言し、群衆を巻き込み始めたらその暴走は止められなくなる。争いが生じ多くの人の命が亡くなるでしょう。カルト教団なんかが、そのような形を成していますよね。

未だに争いの絶えない世界を観たいると、イエスの説かれた「愛」は生涯を掛けても理解しがたい問いなのだと思います。だから「わかりたい」と願うこと、分かろうと努力する姿勢が大切なのではないかなと思うのです。

そう考えると「愛」とは「分かろうと努力する力」なのかもしれません。

相手を分かろうと努力している間は「怒り」よりも「分かりたいな」という考えが先行しているから、感情の暴走は抑制されるのではないでしょうか。 平和とはこの積み重ねなのではとも思うのです。

でも、感情が先行し暴走してしまうのは「分かろうとする努力」よりも「私の思い通りにならない」という感情が勝ってしまうからなのでしょう。

つまり、私達が「好きとか嫌い」という嗜好性を「愛」だと思い込んでいる間は、邪悪な愛が世の中に存在し続けるのだと思うのです。

もし、我が子を分かりたいという気持ちがあれば、「愛」が何だか分からずとも邪悪にはならないのではとも思うのです。