「もずのはやにえ」という。
昨日はインヨガだった。二階でヨガをやっている時は、下で仕込みをしたり、本を読んだり、
酒を飲んだりする。
昨日は、オリンピックで鴨肉が安く売っていたので、それを「かもなんばん」にしながら、酒を飲んだ。
「汁もん」で酒を飲む、というのは、まことにけっこうなお手前で、いいもんだ。酒大学の大学院みたいなもんかも。
ヨガが終わって、少し寒かったので、手あぶりの残り火の五徳の上に鉄瓶をおき、そこに鳳凰美田の「燗用」
とかいた酒を錫のちろりに入れて、残った鴨肉を焼いて酒肴にしようとしていたら、横から「残していたんだ」
という声をきいた。瞬間頭の中で百舌が泣いた。幼きころ近くにあった小鳥屋のおやじが「もずという鳥は、虫を神さんにささげるんや」
「もずの生け贄、別名早贄(はやにえ)、といってな」と教えてもらったことをを思い出した。
「福」という文字は、田んぼで獲れた穀物を神棚に手向けること。同じようにもずは、秋になって初めて獲れたバッタやこおろぎなどを
枝股にはさんで、神に手向ける。貯蔵する、というと、「老後いくらかかるの」よろしく吝嗇ばかの人間さまみたいなので俗がある。
「早贄」と命名した先人のセンスをたたえながら酒を飲んでいると、ちと飲みすぎた。
ときどき恵那山に棲む仙人みたいなじいちゃんが山をおり蕎麦を手繰りにくる。「20日以降、何かかわったことがありませんか?」
という。「・・・?」な顔をしていたら、「恵那から小鳥や小動物の姿がほとんど消えました。少し鳥の声はきこえますが・・・」
という。ので、「この界隈も閑古鳥の声しか聞こえませんよ」というと、にこりとして、「いよいよ地球も限界なんでしょうかね」
と仙人。だれもが「大変な時代」を肌で感じていると思うけど、そろそろ地球も悲鳴をあげる声が届きそうな様相になってきたらしい。
せめてもずさまのように、満腹になる前に、神に手向けたり、人にほどこしたりすることを、人も学ぶ時がきているのかもなんばん。
かもなんばんを食べながら酒を飲む贅なことをやりながら、けっこう矛盾したことを考えている。いつまでも凡夫この上なしだ。
今日は朝から雨。「満つまめの会」である。まーくんは街の灯りをたよりに天真庵まで歩いてくるので、雨の日は傘もささずに
歩いてくる。生まれつき目が不自由な中で、自律するためにヨガや整体や気功を勉強しながら歩いてきた。秋くらいには、少し
実りを神に手向け、この生きずらい世界を生きてる仲間たちを少し楽にする仕事が、世の中に認められ、優美に広がっていく、そんなイメージがある。
16時半からは下では「蕎麦打ち」。
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