昨日はウォーミングアップ程度に朝起きて近所をジョギング。
その後、bunkanに珈琲を飲みにいく。キラキラ橘商店街をてくてく歩いて
たどりつくと、なんとなく東京に戻ってきた、という気持ちになる。
その後、押上猫庫にいって酒粕ココアを飲む。なんだかお屠蘇気分になる。
このお店には貞本さんの書「一斗二升五合」も飾ってある。
商売益々繁盛、という言霊をかけためでたい字だけど、へび年にみんな
そうありたいものだ、とつくづく思う。
その後に焙煎をしていたら、カリスマ、もとい烏丸料理人が新年の挨拶に
きたので、初煎会よろしく今年初めて焙煎した「ブラジル」を飲む。
彼がおかわりを所望したので(もっとも、いつも彼は3杯から5杯飲む)
2杯づつ飲む。
新年会まで少し時間があったので、もう一軒梯子。正式には一度しかいったことが
ない近くの「東京スコーン」にいって、珈琲を飲む。話の途中で、「猫が飼いたい
」といったので、「福という名前の子猫がいるぜ」といった。
そうだ、うちの子猫で一匹残った猫は、「福」と名付けた。残り物に福がある、
という意味もありけど、彼の笑顔(猫に笑顔がある)は「福相」なのだ。育った
大家さんの名字が「福田」でもあるし、福。それしかないようないい猫。
福の近くには「麻呂」というネコがいる。
休みの途中に読んでいた禅の本に、「麻呂がはだかでまろはだか」
という禅問答が紹介されていた。麻呂(公家さん)も普通の庶民も、猫も犬も
みんな「まるはだか」で生まれ、何もおかずに死んでいく。その「無一物」
のありがたさを感じながら生きていくのが人生、ということだろう。
夜は、日本酒のお店「東西南北」に書の先生と生徒が集って新年会。
今年の書の会も、文人墨客たちがあまたやってきて、自分を書く、己と対峙
する、という芸術を楽しみたいと思う。
明日は「事始め」
夜は「ねんどの会」がある。「今年こそ、書」
でもいいし「今年こそ、土をこねる・・」というのも、いい。
年年歳歳、「計画だおれ」ではなさけない。
「蕎麦打ち」「花」「茶」「論語」「英語」「中国語」「易」
・・・・門はいっぱいある。
禅の世界に「大道無門」という。学門の大道には、門はありません。どこからでも
だれでも気持ちがあれば自由に入ってこれる、というような意味。
ほんま、そやと思う。
その後、bunkanに珈琲を飲みにいく。キラキラ橘商店街をてくてく歩いて
たどりつくと、なんとなく東京に戻ってきた、という気持ちになる。
その後、押上猫庫にいって酒粕ココアを飲む。なんだかお屠蘇気分になる。
このお店には貞本さんの書「一斗二升五合」も飾ってある。
商売益々繁盛、という言霊をかけためでたい字だけど、へび年にみんな
そうありたいものだ、とつくづく思う。
その後に焙煎をしていたら、カリスマ、もとい烏丸料理人が新年の挨拶に
きたので、初煎会よろしく今年初めて焙煎した「ブラジル」を飲む。
彼がおかわりを所望したので(もっとも、いつも彼は3杯から5杯飲む)
2杯づつ飲む。
新年会まで少し時間があったので、もう一軒梯子。正式には一度しかいったことが
ない近くの「東京スコーン」にいって、珈琲を飲む。話の途中で、「猫が飼いたい
」といったので、「福という名前の子猫がいるぜ」といった。
そうだ、うちの子猫で一匹残った猫は、「福」と名付けた。残り物に福がある、
という意味もありけど、彼の笑顔(猫に笑顔がある)は「福相」なのだ。育った
大家さんの名字が「福田」でもあるし、福。それしかないようないい猫。
福の近くには「麻呂」というネコがいる。
休みの途中に読んでいた禅の本に、「麻呂がはだかでまろはだか」
という禅問答が紹介されていた。麻呂(公家さん)も普通の庶民も、猫も犬も
みんな「まるはだか」で生まれ、何もおかずに死んでいく。その「無一物」
のありがたさを感じながら生きていくのが人生、ということだろう。
夜は、日本酒のお店「東西南北」に書の先生と生徒が集って新年会。
今年の書の会も、文人墨客たちがあまたやってきて、自分を書く、己と対峙
する、という芸術を楽しみたいと思う。
明日は「事始め」
夜は「ねんどの会」がある。「今年こそ、書」
でもいいし「今年こそ、土をこねる・・」というのも、いい。
年年歳歳、「計画だおれ」ではなさけない。
「蕎麦打ち」「花」「茶」「論語」「英語」「中国語」「易」
・・・・門はいっぱいある。
禅の世界に「大道無門」という。学門の大道には、門はありません。どこからでも
だれでも気持ちがあれば自由に入ってこれる、というような意味。
ほんま、そやと思う。