火曜日は「書をしよう会」だった。
先生の貞本さんとは、大塚の「江戸一」で知り合った。まだ若いのに
白鷹の燗を幸せそうに飲んでいる姿が印象的だ。その後、馬があい、
ぼくがやっていた組合に入ってもらったり、ヨネクラボクシングジム
にもいっしょに通ったりするようになった。押上に天真庵を結ぶ時に、
「看板」の文字をこころよく書いてもらった。そして自然発症的に「書をしよう会」
が始まり、おもしろい文人墨客たちが月に一度、書をかきにくる。なんとも自由闊達で
融通無碍な雰囲気だ。
今年没後250年になる「売茶翁」(ばいさおう)を物心両面でささえたのが、江戸時代
の代表的な文人・亀田窮楽。大酒飲みだったらしい。どうも彼と彼(貞本)と、同じ匂い
がしていて、売茶翁の映画でもつくることになったら、彼以外演じられないのでは、なんて思ったりする。
一月号の「墨」という雑誌に見開きで、貞本さんの書が紹介されることになった。
煎茶を楽しんだ文人に「頼山陽」という人がいる。教科書には「日本外史」の著者として紹介されている。
その中に「川中島」があり、ぼくの生まれた北九州では、小学校の運動会の騎馬戦のことを「川中島」という。
頼山陽は引っ越しが好きだったらしいが、最後は「山紫水明処」と名付けた家を加茂川の近くに立てた。
ちょうどぼくが通った大学の近くにあり、一度いったことがある。そのころは煎茶や文人趣味にはさほど関心
がなかったのに、不思議な縁みたいなものを感じた。その時のイメージが残っていて、天真庵の二階の雰囲気
はそんな感じがする。火曜日は少し寒かったので、「剣菱」を熱燗にして飲んだ。
実は、「剣菱」と頼山陽は深い因縁がある。「酒を愛すること妻の如く、酒を惜しむこと銭の如し」
と謳った頼山陽は、茶とお茶けとは切りはなせない人だった。剣菱酒造の当主・原佐一郎は、「老柳」
と号し、文人たちとの交流を楽しみ、清貧な彼らを援助していたらしい。そんな流れがあるのか、ぼくらが
学生のころの頑固なおでんやや居酒屋の主人たちは、「剣菱しかおかへん」というのがあまたいたような
気がする。ぼくは、おでんには「名誉冠」のぬる燗だときめていた口だけど・・・
今日は「ピアノの調律」。調律師のIさんも無類の酒好き、料理好き、器好き。
♪ 京都三条の糸屋の娘(起)姉は十八 娘は十五( 承) 諸国大名は弓矢で殺す(転)糸屋の娘は目で殺す(結)
これも頼山陽作。起承転結を説明するのに、中学一年の国語の福田先生が教えてくれた。大学を京都に
きめたのは、この詩の影響は大きい。