昨日、友人と「本願寺展」に行った。
私は元々美術館は一人で行くのが好きだけど今回は友人からの誘いで一緒に行った。
思った以上の人の多さに驚いたが友人から「信者さんが多いのよ」と、聞いて「なるほど信心深い人が多いんだなあ」と、思っていたら帰宅した夫が「信者には券が配布されている」からと聞いてがっかりした。
本願寺の歴史は親鸞の歴史そのもの。
その親鸞の教えに学ぼうと言う人ばかりでは無いようだ。
勿論私も本願寺の美術的価値が見たくて行ったので人の事はいえないのだが・・・。
今回の展覧会は親鸞聖人750回忌の記念行事の一環としての開催で、掛け軸などは普通の展示作品に比べすすけて?いるのか見え難い。
それにしても見事な天井絵、襖絵、歴史上の人物の直筆などが沢山出品されていた。
襖絵に至っては5億2千万画素の超高精細の複製が並べて展示してあり、本願寺の財力にも驚かされる。
お寺に展示してあるものは美術館の美術品のような保存がされていないのだろう傷みが激しく見づらいものがあったが、本来は信者にはいつも公開されているものだろうか。
親鸞の教えは「南無阿弥陀仏」と、唱えれば悪人さえも全ての人が救われると言う誰にでも分かりやすい教えだ。
世界中で飢餓、貧困、暴力、戦争などに加え地球温暖化という自然の危機に瀕している今こそ宗教の果たす役割は大きいと思うが釈迦やキリストの教えをどうして生かされないのだろうと単純に思ってしまう。
こんなに多くの人が親鸞の教えに感動するのならなお更、自分の周りに教えが広まらないのだろう。
自ら寺を持たず、布教活動に尽くした僧侶が過去には沢山いたが今はお寺から出てこない僧侶が多い。
宗教は今こそ人々の中に入り、世界の平和の為に尽くすべきではないかと思う。
まして、葬式だけのお寺からも脱却して欲しいものだ。