一部の方々にとっては思い出したくもない出来事。
それが、いやそれ以上のことがまさに今起こっています。
あの地震もすごかった。
都市直下型地震のすさまじさを見せつけられたものです。
地震発生は1995/1/17未明。
当初は震度4とか5、死者2名で伝わってきましたが、
阪神間と言えばほとんど地震が無く、震度4なら大騒ぎするほど
地震に慣れていない地域でしたから、
親戚知人友人連中は相当心配しているだろうと思ってました。
その数年前のサンフランシスコ地震の際、高速道路が落下したのを受けて、
日本では絶対に起こり得ない(建築方法が違うから)と言っていたのに、
橋脚そのものが圧潰して道路がひっくり返っているのを見て、愕然としました。
案の定、当初の報道どころではなく、最大震度は7、死者6千余名、
全半壊25万棟、避難者30万人以上の大惨事となりました。
私が現地入りしたのは、地震から約2か月後の3/20。
地下鉄サリン事件の発生した日です。
やっと一般人の出入りが自由になり、JRも一部開通、
当時両親の住んでいた東大阪から、神戸、須磨の実家まで
JRとバスを乗り継いでいきました。
車窓から見る街並みは惨憺たるものでした。
大阪はそれほど大きい被害はなかったのですが、
神戸に近づくにつれ、徐々に増えてくるブルーシート。
(被災家屋の屋根に掛けられている)
三ノ宮センター街のビルはよく見ると途中階がへしゃげて押しつぶされており、
全部建て直しになるんじゃないかと思うとともに、
一体何時復興できるんだろうと思ったものです。
須磨駅から実家まではあちこち崩れ、無くなっている家も多く、
みんな、避難していたんでしょうね、辺りには人一人いないようでした。
実家は、地震の少し前に祖母が亡くなって空き家になっていたので、
人的被害はありませんでした。
家は形を保っていましたが、塀に穴が開いて
玄関前に大きい石が転がっているのを見てびっくり。
道を挟んだ向かいの家の石垣の石が飛び込んできたのでした。
家の中は、割れたガラスや崩れた壁などで足の踏み場もない。
当然靴のまま家に入り、片付け。
と言っても手を付けられる状態ではなく片づけたのは位牌ぐらいだったかな。
食器類は全滅、書籍もぐちゃぐちゃ。
階段は残っていて、2階に上がることはできましたが、
天井は剥げ、瓦も落ちて屋根は穴が開き、見上げると空が見えました。
良く見ると梁がずれて、柱とぎりぎり乗っかっているような状態。
あと10cmずれが大きければ、屋根自体が落ちていたでしょう。
現に隣の家は完全になくなっていたしね。
外を業者が調査をしているようで、携帯電話で
どこかと連絡を取りながら、見て歩いていました。
この時はまだ携帯電話は一般的でなく、
歩きながら携帯を使う人は珍しかったので、良く覚えています。
現在の携帯の世帯普及率は96%以上、契約数は1億2千万台。
携帯があるので家に固定電話を持たない人も多い。
今や何かあればすぐに発信規制を受ける携帯ですが、
当時は固定電話は規制しても携帯はつながる時代でした。
結局家はほとんど何もできないまま。
家を建て替える余裕も当てもなく放置。
その後、市が強制的にがれきを整理、更地になり、しばらくは空き地のまま。
近くのいわゆるご近所も半分くらいは移転してしまったんじゃないか。
空き地が散見されます。
私が子供の頃から拡幅の噂があった近くの通りは、復旧復興の際に区画整理され、
道幅も広くルートも変更されて整備された。
今はもう以前の面影はないが、きれいになるには10年以上かかっています。
今回は地震の被害もさることながら、津波がひどかった。
町自体が押し流されて無くなってしまっている地域も多く、
この後がれきを片付けると、膨大な更地が広がってくるのではないでしょうか。
こういう言い方をすると不謹慎だが、中途半端に何か残るよりは
完全に何もなくなった方が、かえって新しい街づくりには良いかもしれない。
また同じように低い土地に家を建てるかどうかは別問題だし、
土地の権利関係を考えると一筋縄ではいかないのは判るけれども、
防災、災害に強い町作りを考えた場合、
ゼロから出発できることは強みでもあります。
まだまだいろいろあるだろうし、
財政面、法制面、地域だけでは難しいことも多いでしょう。
外部の力、智恵を必要とすることも多いとは思いますが、
復旧復興に向かっては、将来の姿を良く考えて計画されることを。
それが、いやそれ以上のことがまさに今起こっています。
あの地震もすごかった。
都市直下型地震のすさまじさを見せつけられたものです。
地震発生は1995/1/17未明。
当初は震度4とか5、死者2名で伝わってきましたが、
阪神間と言えばほとんど地震が無く、震度4なら大騒ぎするほど
地震に慣れていない地域でしたから、
親戚知人友人連中は相当心配しているだろうと思ってました。
その数年前のサンフランシスコ地震の際、高速道路が落下したのを受けて、
日本では絶対に起こり得ない(建築方法が違うから)と言っていたのに、
橋脚そのものが圧潰して道路がひっくり返っているのを見て、愕然としました。
案の定、当初の報道どころではなく、最大震度は7、死者6千余名、
全半壊25万棟、避難者30万人以上の大惨事となりました。
私が現地入りしたのは、地震から約2か月後の3/20。
地下鉄サリン事件の発生した日です。
やっと一般人の出入りが自由になり、JRも一部開通、
当時両親の住んでいた東大阪から、神戸、須磨の実家まで
JRとバスを乗り継いでいきました。
車窓から見る街並みは惨憺たるものでした。
大阪はそれほど大きい被害はなかったのですが、
神戸に近づくにつれ、徐々に増えてくるブルーシート。
(被災家屋の屋根に掛けられている)
三ノ宮センター街のビルはよく見ると途中階がへしゃげて押しつぶされており、
全部建て直しになるんじゃないかと思うとともに、
一体何時復興できるんだろうと思ったものです。
須磨駅から実家まではあちこち崩れ、無くなっている家も多く、
みんな、避難していたんでしょうね、辺りには人一人いないようでした。
実家は、地震の少し前に祖母が亡くなって空き家になっていたので、
人的被害はありませんでした。
家は形を保っていましたが、塀に穴が開いて
玄関前に大きい石が転がっているのを見てびっくり。
道を挟んだ向かいの家の石垣の石が飛び込んできたのでした。
家の中は、割れたガラスや崩れた壁などで足の踏み場もない。
当然靴のまま家に入り、片付け。
と言っても手を付けられる状態ではなく片づけたのは位牌ぐらいだったかな。
食器類は全滅、書籍もぐちゃぐちゃ。
階段は残っていて、2階に上がることはできましたが、
天井は剥げ、瓦も落ちて屋根は穴が開き、見上げると空が見えました。
良く見ると梁がずれて、柱とぎりぎり乗っかっているような状態。
あと10cmずれが大きければ、屋根自体が落ちていたでしょう。
現に隣の家は完全になくなっていたしね。
外を業者が調査をしているようで、携帯電話で
どこかと連絡を取りながら、見て歩いていました。
この時はまだ携帯電話は一般的でなく、
歩きながら携帯を使う人は珍しかったので、良く覚えています。
現在の携帯の世帯普及率は96%以上、契約数は1億2千万台。
携帯があるので家に固定電話を持たない人も多い。
今や何かあればすぐに発信規制を受ける携帯ですが、
当時は固定電話は規制しても携帯はつながる時代でした。
結局家はほとんど何もできないまま。
家を建て替える余裕も当てもなく放置。
その後、市が強制的にがれきを整理、更地になり、しばらくは空き地のまま。
近くのいわゆるご近所も半分くらいは移転してしまったんじゃないか。
空き地が散見されます。
私が子供の頃から拡幅の噂があった近くの通りは、復旧復興の際に区画整理され、
道幅も広くルートも変更されて整備された。
今はもう以前の面影はないが、きれいになるには10年以上かかっています。
今回は地震の被害もさることながら、津波がひどかった。
町自体が押し流されて無くなってしまっている地域も多く、
この後がれきを片付けると、膨大な更地が広がってくるのではないでしょうか。
こういう言い方をすると不謹慎だが、中途半端に何か残るよりは
完全に何もなくなった方が、かえって新しい街づくりには良いかもしれない。
また同じように低い土地に家を建てるかどうかは別問題だし、
土地の権利関係を考えると一筋縄ではいかないのは判るけれども、
防災、災害に強い町作りを考えた場合、
ゼロから出発できることは強みでもあります。
まだまだいろいろあるだろうし、
財政面、法制面、地域だけでは難しいことも多いでしょう。
外部の力、智恵を必要とすることも多いとは思いますが、
復旧復興に向かっては、将来の姿を良く考えて計画されることを。
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