峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

閑ジャニさん作品・番付表 

2008年06月03日 16時19分16秒 | 人のフンドシでブログを書く
まゆまゆさんのブログコメント欄で話に出ていました、閑ジャニさん制作の番付表です。
拡大図は、こちら

すごいな~と思っていましたら、昔描いたという絵入り番付のコピーも戴きました。
こっちもびっくり。




“おにいちゃん”(※註) そっくりです。 

拡大するのも いかがなものかと思いますが、見たい方は こちら












(※註)閑ジャニさんのお兄さんではなく、世間一般で言われる愛称であるところの“おにいちゃん”。





ジャニーかわうそ画伯・作 『一休禅爺』手拭

2008年04月10日 20時34分54秒 | 人のフンドシでブログを書く

今日、ジャニーかわうそ画伯から大きめの封筒が届きました。
中には、手拭と手紙が入っていました。

前略 峰猫様
一休手拭送りますので宜敷くお願い致します。
モデルは長渕剛ではありません (コピー同封しました)

一休禅師(爺)が、仏様を抱くように赤ちゃんを抱いている。

赤ちゃんの着物の柄ですが、「亖歹亖日」で、四月四日の古字です。
亖だと三と間違えるので、四になったそうです。
おくるみの柄は希の古字と咲の古字です。「笑」と同じ語源だったかな?
最初赤ちゃんを一休さんと同じ顔にしてみましたが、気持ち悪いのでこんな顔にしてみました。

自分に似ている孫を抱いて思わず口元がゆるんでいる (コピーの顔と比べてみるとわかります) という絵にしました。
が・・・・・
もうひとひねりして、隣の女が気になって満開の桜も目に入らず横目で見ているという図にしました。
                         

柳女手拭の様な粋なおねえさんの絵にしようかとも思ったのですが、今回は字にしてみました。
うちの奥さん曰く、
「こんなもの貰って誰が喜ぶか 気持ち悪い」 とのコメントでした。そう言われれば・・・・。
ブログにアップして一休さんが 「ほしい」 と言ったら送って下さい。
とりあえず峰猫姉さんにあげます
こんなもの貰っても困るような気がしますが・・・・
とにかく送ります。         
           早々
           H.20.4.9 ジャニーかわうそ画伯より





「ほしい」 と言われなくても送ります。


H・N 一休さん 作 『詩・それは静かに始まる』

2008年04月09日 15時10分57秒 | 人のフンドシでブログを書く

     それは静かに始まる(一休・詩)

    ひとつの命を生きるのだと
   今宵 誰かが 静かに歌い始める…

   お前のひとつを 生きるのだと
   静かに ひとつの 歌が始まる

   (大切なことは)
   深層海の流れのように 緩慢で 
   何万光年もの 星々の生死のように
   永遠にも似て 静止して見えると
  
   (大切なことは)
   激して 語られることが無くて
   実は 誰にも せかされてはいない

   けれども 絢爛と、豪華に、豊かで、多彩に   光満ちて
   何千億もの命が 既に 始まっている…

   そこは とても知りえない謎に満ちている

   私達の物語は まだ始まったばかりなのだと



上の詩は、2007年1月1日の記事のコメント欄に、一休さんが寄せて下さった詩です。
今月4日にお孫さんが誕生したお祝いに、ここに改めて掲載します。
(書いた本人にプレゼントって、どうよ? まあ、いいや。

そのときのコメントも、合わせて御覧ください。
微笑ましいです。



画像は、そこで次々と星が誕生しているという、オリオン大星雲です。(ハッブル望遠鏡)


※ なお、一休さんとはコメント下さる一級建築士の方のハンドルネームです。(人気記事に入っていたので一応追記)


手拭い♪

2008年03月15日 13時44分36秒 | 人のフンドシでブログを書く
武久亭ぶくぶくさん、章魚庵さんに続きまして、暇なおじさん(ジャニーかわうそ)画伯に戴いた手拭の公開です。

『峰猫』の字が可愛いです。(イメージぴったり~。





寝転んだ猫が、寝てもなおウエストのクビレがありません。 (事実に ぴった………こら。



ちらっと見えてる肉球が可愛い。


猫の部分は普通に見ると薄いですが、明かりに透かすとはっきり見えるというマジカルでリリカルな優れもの。
縁側に吊るして透かしてみました。




寝ながら歌うは、  ミステリアス ガ~ル 



                 



ところで3日くらい前の話ですが、トトの食欲が落ちた日がありました。
その晩、夢を見ました。
普段はあげてない、ちょっと割高な犬のエサの缶詰を見ている夢でした。

「ああ。 たまにはあれをトトにあげようか」
と思いながら目を覚ましたら、枕の反対側からトトの頭が乗ってきてて、
私の頭とくっついてました。
トトよ。 あんたの夢だったの

さっそく缶詰を買ってきて食べさせてみたら、ペロリと平らげました。

ミステリアス ド~ッグ 



↑次の日は最初から堂々と枕を取られた。





      


3月15日、 ねんじれの里 80~84 をアップしました。

ホームページ 『ねんじれの里』←クリックするとHPに行きます。




ジャニーかわうそ画伯の作品・鼠親爺チョロ吉

2008年01月31日 14時19分39秒 | 人のフンドシでブログを書く

ジャニー暇なかわうそおじさんさんから、寒中お見舞いのお葉書を戴きました。
手先の器用な方だとは思っていましたが、絵も上手いじゃありませんか。

これはまた 「他人のフンドシでブログ更新できるゾ」 
ということで、アップします。 

一休さんの詩

2007年12月15日 08時16分04秒 | 人のフンドシでブログを書く

老女は今どこに?

お花畑を満喫し 歌をうたいながら
澄んだ川を渡り「なんて綺麗な水!」
 
やがて 目もくらむ光のトンネルを経れば
老女は再び絢爛たる生命の世界へ
(次は、王女なんかどうかしら…)

「死」はまた 新たな「生」の始まり
ひとつの「命」の「生死」の繰返し…
無限に続く 生命の世界

老女の微笑みは
幸福な生と 満ち足りた死のしるし

「悲しまないでね」

再び輝く その時まで
老女はひとときの休息に微笑んでいる

「次は私のほうが若いのよ」

お茶目な老女は 静かに微笑んでいる

さようなら
さようなら…

皆さんお元気で
またいつかお会いしましょうね









今年10月21日の記事、『ふと、その岩を飛び去んぬ』 に一休さんが寄せて下さった詩に、絵を付けさせて戴きました。

素敵な詩をありがとうございました。



亜無さんのコメント(抜粋)

2007年12月10日 17時51分28秒 | 人のフンドシでブログを書く
『ねんじれの里』 で、にゃ吉の持つ板 (亜無さんにより、“にゃ吉ボード” と命名) から、亜無さんより下記のようなコメントを戴きました。
2007年4月3日の記事、『山東亜無作・野の猪』にもありますが、「手話だけではない」 というのは重要な提言だと思うので今回も記事にします。



【ねんじれの里60 のコメント】
にゃ吉ボード・・・は、もし実現されているなら(現在その一歩手前?)
中途失聴者にとっては、すばらしい福音的装置であること 皆さんにはお気づきでないかも? と思います。
・・・この点、この前から「書かねば」と思っていたことです。

目の前で話す、ほんの二言三言が聞こえず判らないばっかりに失聴者はどれだけ悔しい思いをしてきたことか?
どれだけ人生を限られた狭いものにされてきたことか?
それが、ほぼ殆んど解消される、素晴らしい装置なのです、それは。
この点、ここにいる方々だけでも理解いただけたら、それだけで私めなど、幸せに思うところです。

このように言うと、決まって、「手話は?」と思う人がいることを よく知っていますが、手話は言語的に制約が大きすぎるし、問題点がいくつかあります。
・・・手話を少しでも知っている人なら、手近な詩の一編でも手話に置き換えてみていただけば、問題点の1つにすぐ気づくはずと思います。
(詩は詩でなくなります。)

・・また私など、大河ドラマ等の時代劇を字幕付きで見ていますが あの画面にもし手話通訳が出て来たら、もう、とても見れたものでないものになってしまうのは、誰でもすぐ想像つくと思います。
また時代劇の言葉そのものが手話ではとても表現出来るものではないことは当然でもあります。
(「ぶちこわし」になるだけです。)

それを、これまで、「ろうあ者」の人々の立場を第一に考えすぎて、手話の持つ問題点を無視し続けてきたようなところがあると思います。
そのような経緯から、手話について、わずかでも否定的な意見を持つと、
やれ、偏見だ、差別だ、という声を挙げるのを正義であるかのように思いこんでいる人々が非常に多いのが現実です。
それは、むしろ「人権問題」であるとも思うのです。
詳しく書こうとすると、また、ものすごく超長文になるので
ここでは差し控えたいと思いますが、それは実に1冊の本になるぐらいの内容になりそうです。
そういうものを書き上げる力が私にはないのが残念なところです。
それで、せめて、ここの方々だけでも解っておいていただきたいと切に願うものです。
そうして、早く、「にゃ吉ボード」が実現してほしいものです。

・・・ハードウエアとしては技術的には実現可能性はすでに現実のものであると思います。
・・・ここで、気づく人は気づくと思いますが、そういう装置が仮になくても、書いて伝える気さえあれば、たちどころに解消する問題でもある面がある訳です。
それを「手話は?」という考えが邪魔している一面さえある訳なのです。
・・・その辺に根本的問題がある訳ですが。 (かなり厄介な問題と思います。)


【ねんじれの里61のコメント】
OHPを使った要約筆記については、30年ほど昔に京都で始められ
その後、全国に広がったのだったと思いますが、山形の方でも、全く同じスタイルで実行されているようであることを知り大変有難く、嬉しく思いました。
見解や如何に? と問われましても、非常に大きな問題であるので とても簡単には答えられない気分です。
が、主要な点としては、そこに示されている結果として、少なくともまず、聴覚障害に対処する方法が「手話だけではない」ということが多くの人々に知られることになって、その点が「一石二鳥」の効果となっているようにも思います。
(現場で助かっている人がいるだけでなく)

・・・昔は「手話」しか方法が知られていず、昔、私が失聴した当時は第何次めかの「手話ブーム」の時で、
「手話を受け入れることが障害の受容である」というような考え方が押し出されていた時代でした。
で、私なども半ば疑問を感じながら「手話教室」に通って習ったものでしたが
そのうち「やはりチガウのではないか?」と考えるようになり~ という次第でした。
(こちら神戸で初めてOHP使用の方向を打ち出したりも。)
・・・その辺、「手話」についての言語的な面における問題点はすぐ気づく訳でしたが

・・・私など昔から多少の文学趣味があり(文学青年?だった?)
詩を読んだりのこともありましたし、手近の詩を手話に置き換えた時すぐ限界が見えましたし、言葉を冒涜することの忌々しさ・悲しさを感じたものでした。
言語的な面はともかくとして(=最も重要ですが=)、早いハナシ、
現在では多くのテレビ・ドラマが字幕付きで見られる訳で、私など常にそれで楽しめている訳ですが、その画面にもし手話通訳が出て来れば、たちまち画面やドラマそのものが壊されてしまうことになるのは自明のことであり、この点は手話を知らない人でもすぐ理解出来ることだろうと思います。

・・・「風林火山」の画面にもし手話通訳が出て来たら冗談かと思ってしまうのはともかく、
「止めてくれ・・・」と思っても当然であり正当なことであるはずと思います。
・・・にも拘わらず、わずかでも「手話」について否定的な意見を出すと「偏見」だの「差別」だのの言葉をすぐ思い浮かべる風潮があるように感じられるのですが、それが私の思い過ごしであるなら幸いであると思うところです。

成沢未来さん講演会 ~2007浦和 クリスマス講演会~

2007年12月03日 12時22分00秒 | 人のフンドシでブログを書く
昨日12月2日(日)は、さいたま市民会館うらわ で行われた 浦和キリスト集会主催のクリスマス講演会に行きました。
ネットご近所からの参加は、 私と母と、“るーいーかあさん”さんでした。

テープレコーダーやカメラはダメなんじゃないかと勝手に思い込んで持って行かなかったため、メモ書きを元にしたものなので、どこまで皆様にお伝え出来るかわかりませんので、先に謝っておきます。すみません。
また、詳細に全部書くとかなり長くなるので、端折ります。
すみません。

   

           


会場は51名用集会室2つ分で、ほとんどが教会の方でした。
未来さんの講演の前に、未来さんがコメントで、
「東大医学部教授を退官された後、墨田区の病院長に就任され、専門は精神科です。内村鑑三の息子内村祐丈先生ともご一緒に勤務された、私にとっては雲の上の人ですが、とても気さくでそして優しい先生です」と紹介された関根義夫先生と、
お父さんの成沢道夫さんの話がありました。
お2人とも、話が上手いです。 

未来さんのお父さんはコメント欄で “ゴールデン街” 様として存じ上げているだけに、
こんなに上手に話をなさる方なのネ、と驚きもありました。 (すみませんアヤマッテバッカリ)
キリスト集会でのお話ですので、キリスト教の信者さんに向けてのお話であるのは当然ですが、その真摯な話し方、笑いの取り方、クリスチャンでない私も惹き込まれるように聞きました。

内容は、未来さんが先天的な病気のため何度も手術を受け、一時は未来さんの幼い命を諦めたことなど、成沢家の辿った道でした。
そして未来さんのお母さんはキリスト教信者であったけれど、道夫さんは かたくなな仏教徒であったこと。
未来さんが高校2年生のときに、「大学に行って牧師になりたい」 と言ったときに激しく怒り、そのとき未来さんに旧約聖書のヨブ記第3章11節を言われ、ショックを受けて その瞬間キリスト教に信仰を持つようになったというお話でした。

ヨブ記のその部分もお話になりましたが、3章11節とだけメモしたため、ここで良かったのか記憶が定かでないのですが、ここで良いのでしょうか。 
なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。

(学生時代に父からもらった旧約・新約いっしょになった聖書を押入れから引っ張りだしてきたのですが、日本聖書協会・1955年改訳版なので、少々古いかもしれません。

また、職業を何度か変え、一時はかなり儲かる仕事もしていたのに、合法とはいえ人様を騙している気分に耐えられずにまた転職した話。
これも成沢家全体の印象である、真面目で真剣な生き方を象徴するお話だと思いました。

 (メモ中に描いた似顔絵)→ 


さて、5分間の休憩の後は、未来さんの講演 『患難は忍耐を生み出す』 でした。
人前で話をするのは、お父さんほどは慣れていない様子で原稿を読みながらではありましたが、誠実さの溢れる話ぶりでした。

演題は新約聖書・ローマ人への手紙 5章1~5節からの引用です。
~ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神と平和を持っています。 
また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた精霊よって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


未来さんが選んだ神学は、勉強する範囲が広くてかなり厄介な学問だそうですが、それを選んだ理由は先天性の病気があったからこそと言います。
「どうして俺だけがこんな障害を持って生れたのか」という思いはあったけれど、
そのために文学にも出会うことが出来たと言います。

他に、沖縄への思いや、御両親と弟さんたちのこと、
「父と母のアガペ(無償の愛)により自分がある」 などと話されました。

「患難は希望に変わります。 必ず変わります」
という言葉に勇気付けられる思いがしました。

未来さん、今は雑誌の短歌評など、月に2本の仕事をなさっているそうです。


            
           
さて、講演のあと、サイン会もありました。
間近で見る未来さん、瞳の美しいハンサムさん  (オバサンはこれだから ( -_-)フッ)

お父さんもお母さんも、思った通り素敵な方でした。 弟さんたちも可愛くて利発そうでした。

写真の掲載も許可してくださったので、携帯カメラではありますが、パチリ。


 

私、まだまだ仏教徒ではありますが、良い時間を過ごさせていただきました。
ありがとうございました。



福猫 (たぶん) が来た!

2007年11月14日 14時32分21秒 | 人のフンドシでブログを書く

ぱんぱかぱーん  ぱんぱんぱ ぱんぱかぱーん


ジャニーかわうそ様から、猫の人形を戴きました。



濃い金色の猫で (茶色?)、そのふてぶてしい…いや、福福しい顔は、いかにも10万円くらい持ってきてくれそう。

これは縁起物に違いありません。
寝床の近くに置いたら、吉夢も見られるかもしれない。


いまにも動き出しそうだから、明日の朝には魚が骨だけになってそうな気もします。




赤い首輪も可愛い。 




ジャニーかわうそ様、ありがとうございます。 











成沢未来氏 講演会のお知らせ

2007年10月12日 16時22分32秒 | 人のフンドシでブログを書く

短歌界の貴公子、ご近所ブログのアイドル、 mirai さん の講演会が決定しました。

              

     
詳しくは 10月8日の記事のコメント に書いて下さいましたが、
簡単に再掲します。(ぜひ、miraiさんのコメントもお読みください)


テーマは、 「患難は忍耐を生み出す」
miraiさんの生い立ちや考え方を中心に、沖縄平和問題を取り混ぜた、自伝的内容になるようです。


とき    12月2日 14:00~16:00
ところ   さいたま市民会館うらわ 7F
会費   自由献金



miraiさんには 『一等賞の旗』 と 『沖縄哀歌』 の2冊の著書があります。
当日は、サイン会もあるそうです。





『一等賞の旗』 の私の感想は、こちらです。
        
2007年01月20日記事 『成沢未来・著 『障害をみつめる十七歳 ・ 一等賞の旗』

山東亜無 作 ・ 『野の猪』

2007年04月03日 14時42分57秒 | 人のフンドシでブログを書く
    <野の猪(いの)>

野の猪は怯えていた
恐れていた
今しがた、そこの崖の上の道を
通りがかった人間の目を。

その目は
もともと臆病そうな形の後ろに、
やたら傲慢な光を帯びていたからであった
その目は
自らは安全な高みにいながら
蔑むような光を宿していた
しかも同時に憐れみの心をも持っていて
それを誇っているかのようであった。

そして、その目は云っていたのだ
お前はそこをはいずり回って死ぬしかなかろう
それはともかく、お前は
人間の心や言葉を解することはできぬであろう
と。

猪は怯えていた
そして寒さに震えてもいた
しかし、むしろ、怒りにこそ震えていた
その身体はやせこけ、
四肢も細くおとろえていた
が、思い返すのだった
こんな身であっても
地のうなり声を聞くことはできるし
天に書かれた文字を読むことができるのだ
人間よ
お前たちこそ、それを知るまいが
と。

( 私は失聴者であるが、恐れていた、 恐れている。
 「手話を…!」 と云われることを。 
 それは方法のひとつにすぎない。 言葉の力を奪わないでほしい。)



私は10年近く前に髄膜炎と胆嚢炎を続けて患いましたが、亜無さんも同じ病気をしていました。
ぉぉ!~~~(/ ̄▽)/\(▽ ̄\)~~~仲間じゃぁ♪

私は一応完治したけれど、亜無さんは髄膜炎で聴力を失いました。
それは、また私にも、誰の身にも起こり得ることです。 

正直言って私は、手話が出来れば聴覚障害を持つ方の助けになると思っていたし、手話は素晴らしいものだとだけ認識していました。
ところが亜無さんは、「手話だけではない、手話だけではいけない」 と訴えています。
そのことは前記事でも紹介したコメント欄で時間を掛けて説明してくださいました。
あまりに時間を掛けて枝葉が多くなったため、少々わかりにくくはなりましたが…。

亜無さんの書いた言葉を使って、ここでもう一度まとめてみようと思います。

              

亜無さんが 「手話だけ(という考え方)ではダメ」 と言っているのは、第一に
手話は使えば使うほど、言葉(音声)に関するところを損なう面があるからだそうです。
以下、亜無さんの文章をそのまま引用します。

手話は言葉に1対1に対応しない表現方法であり、かつその表現は言葉を言葉として伝えず、逆に棄損し冒涜するところがある、と見られるところがあります。   
・・・「ワンワン(犬)、ブーブー(車)」のような幼児語的表現をして 「聴障者なのだから当然。」 というようなカオをされたら、私など内心、不愉快に感じます。
  (表向きは、「それは手話表現なのだから」と思ってガマン。)
  (なお、手話には幼児語的な面もあります。)

音声では複数の語での表現になる場合でも手話の場合は 「ワン・アクション」、「1表現・1語の手話」 ですまされてしまうということが多いですが、そのため、そういう風に手話ばかり使っている聴障者は論理的に言語を組み立てて、物事の理解を進めるということが出来なくなる傾向があるようです。
・・・例えとして挙げれば、「酒を飲んでヨッパラッて。。。」などのハナシは手話的表現であれば自ずと「ヨッパライ」のジェスチャー的表現をしてそれで 「ことたれり」 になってしまい、「酒を」+「飲んで」+「ヨッパラッて」~というような文章を組み立てて考える必要がなくなり、その習慣もなくなるので、文章にも書く力までも育たないということになりがちです。
  (=実例となる人を私は複数知っています。=)
逆に失聴者である私の場合では、一旦手話を覚えてしまうと、手話表現の方が表現に要する時間が短いので、例えば「ありがとう ございます」と発声しようとした時に、つい手話表現が念頭に出て無意識のうちに、手話表現と同じ短い時間で発声しようとして舌がもつれて、まともに発声できないという状態になります。

実際、私の知る範囲でも、手話を多用する難聴者・失聴者で発声がまともにできなくなっている人がいます。
手話にはそういう面もあることを知っておいていただきたいと思います。
・・・つまりは聴覚障害を支えるはずのものが、逆にマイナスに作用している面があるということなのです。
  =障害を深め複雑化させている面があることになります。=



インターネットでの文字の会話には、聴覚障害はわかりません。
亜無さんの障害のことも、御自身が語って初めてわかることです。
しかし、もし実際に聴覚障害を持つ方と関わることになったとしたら。
私自身、神戸に行って亜無さんと会える機会があったとしたら、どうコミュニケーションを取ったらいいのだろう? と、ふと考えたこともありました。
そして実際、亜無さんには次のような出来事がありました。

・・・先年まで勤めていた会社でのこと、次々とパートタイマーの人が入れ替わる度に、私の立場を理解してもらうのに一苦労していました。
そういう中で 「私は手話を知らないのであなたと話しができません」 と紙に書いて突き出した人がいて、唖然としてしまったことがありました。
・・・私の方は口頭で「コレコレですので。。。」と言っていたのですが。。。
思うに、その人は、「聴障者」とはどのようなものか知識もなくて、
・・・実際に知っている人なら、一声の発声を聞いただけで、その人が(幼児期からの)聴障者であるか、すぐ判断できると思います。
=「ろう声」という独特の発声であるそうです= (私は聞いたことなく、知りませんが。)

ただ単に「手話」というものがあることのみ知識として持っていて、
ただ、「手話を知らないので。。。」 ということをまず表明しなければならないという一種の 「強迫観念(?)」 に囚われていたのだろうと、後で気が付いたものではありました。
・・・もっとも、その人とは仕事上の接触も殆どなく名前も顔も記憶するヒマもないままで、実用上はどうでもよかったのですが、 「手話でなければならない」 ということはない、ということを知らせるヒマもなかったのは残念でした。
・・・その人も、自分の発言を紙に書いて示しているのだから、聞こえない者に対して書けばコミュニケーションできるということに、何故気づかなかったのか、不思議という他ないのですが、
私の想像するには、文章に書くということは文書・手紙文面作成という特別なものであるというような思いこみを持っていたのだろうと思うのです。
 


そこで、亜無さんは、「手話だけではない他の方法」 として、文字情報でのやり取りを考えています。
音声入力の出来るPCが製品化できさえすれば、即実現可能ではないかと。
なるほど、亜無さんは耳が聞こえないだけで発声は出来るのだから、相手の言ったことが文字化されれば会話できます。
音声入力PCは実際に開発されてはいるようですが、目的が聴覚障害に絞られているわけではないようです。
音声入力による携帯PCでなくとも、最近では近くにいてもメールでやり取りすることもある世の中。
若者の携帯メールの早打ち技を見ると、「手話」 ができなくても全然オッケーだ…と思えます。 ( ̄▽ ̄)ノ"

ここでまた亜無さん自身の言葉を引用。
 
「手話の普及が聴障者福祉になる」 という非常に一面的な考え方の人が非常に多いと思いますが、それが 「間違った常識」 であったと考えられる、そういう世の中になって初めて豊かな社会が実現するであろうと思うのです。
・・・聴障者界に「差別」を持ち込まないために、手話はあくまでも 「方法のひとつ」 であるという考え方を打ち出すのが妥当なセンかとは思いますが、現実には、それさえなかなか困難なものであるようです。



対面で相手の目を見ながら話すからこそ、コミュニケーションが取れるのだという考え方もありますから、手話もまだ必要ではあるでしょう。
亜無さんもそれはその通りだと仰います。
ここからまた引用。↓
 
ところが、手話は言葉としては、あまりにも不足点が多すぎるので、ちょっと微妙かつ複雑な内容となると「追いつかない」ということになりがちなのです。
=特に時間的前後関係がからむないようであったり、二重否定や部分否定の含まれる内容になると、まともに伝えられない、という状態になりがちです。
それだけでなく、手話は、現前で目える視覚的イメージと言語的意味を分けて理解する必要があるので、そのような点、手話の語としての意味とその視覚的イメージとの間に大きなズレがある場合、非常に困惑する場合が出て来ます。
「この表現は手話でコレコレの意味であって、視覚的イメージとは別なのだ」 と絶えず 「翻訳作業」 に神経を使うことになって、私など特に神経疲労を感じることになります。
筆談なら1時間やっても疲れないところ、手話だと2~30分もやっているとクタクタになります。
それだけでなく、言葉を冒涜している表現を使ったことが悲しくなる・・・というのが本音なのです。



聴覚障害にもいろいろあり、何歳で聴力を失ったかによっても事情は違ってくると思います。
亜無さんは成人してからだから、余計に言葉、文章に拘るという面はあると思います。
同時に、だからこそ、生まれつき、もしくは若くして聴覚障害を持った人に、手話だけに頼って、本来の日本語能力を失って欲しくないという切実な願いがあります。

どうも上手くまとまらないままに長くなってしまいましたが……
亜無さんに教えられるまでは、私は自分が手話が出来ないからといって 
街で外国人に話し掛けられたとき、「NO! NO!」 と手を振って逃げるオバチャン状態になっていたと思いますが、「普通にしていていいんだ」 と、安心出来たところがあります。
これは聴覚障害のある人にもない人にも、良いことだと思います。

 
「手話だけではない、手話だけではいけない」
聴障者であれば別文化の別の世界の人間にしてしまってもよいのか?
という点に非常に疑問を感ずるのです。


という亜無さんの主張が取り上げられ、同時に手話に代わる機器の開発が進むことを願います。


山東亜無 詩集 ・ 『確執の街』

2007年03月31日 16時50分52秒 | 人のフンドシでブログを書く
ブックマークさせて戴いている亜無さんのホームページ上に作られた詩集です。
元は、こちら。

最近は詩をあまり読んでいないのでよくわかりませんが、学生時代は高村光太郎、立原道造、他 「現代名詩選」にて昭和初期~中期頃の作品をよく読んだものでした。
亜無さんの詩からは、その頃の文学者の、内なる情熱を文章にせずにいられない純粋な情熱を感じます。

いくつかの詩の中から、今回3編を紹介させていただきます。

          

 
     【 運 命 】

 なんでもない瞬間が
 ふと目にとまる時がある
 見知らぬ人の片足が
 バスの乗り口にかかっている時
 あるいは
 土曜の昼下がり
 路上に舞い降りた一羽の雀の
 小さな目がチラッと私を見る時
 そしてまた 真夜中に
 隣家の灯りが ふと消える時
 そのような時
 遠く風の渡る音が聞こえてくる


          


     【 山の寺にて 】

 歩き疲れて
 山の寺の庭で休んでいると、
 羽虫が一匹、地表近く、
 長い航跡を描きながら
 飛んでいくのが見えた
 あの虫でも、
 いつか空高く舞い上がって
 その果てまでも飛んでいきたい、
 行けるかもしれない、
 (空を飛ぶことにはかわりなかろう)

 そう思うことがあるだろうか?
 ふと そんなことを思ってみる

 友よ
 あの、韃靼海峡を越えて行った
 一匹の蝶のことを思ってみるのだ
 そうすれば、きっと…

     (神戸新聞『読者文芸』)
          
          


     【 遠い歌 =中途失聴者の随想= 】

   わくらばを
   きょうも うかべて
   まちの たに
   かわは ながれる

 ふと甦ってくる
 むかし聞き覚えたきりの歌
  一時よく流行した
 あれは幾年前のことだったろう
 女性歌手の声は耳の底に残っているし
 歌詞もメロディもよく憶えている
 リズムは たしか ブルース
 もう二度と聞くことのない
 むかし聞き覚えたきりの歌

 この歌が私の耳の奥深く
 大脳皮質の迷路の中で
 これほど強く刻みこまれた
 それは いつのことだったのだろうか
 この歌の記憶と繋がる
 真空管式の古いラジオの記憶
 ネジを巻くのを忘れて
 止まったままの置時計
 机の上に何冊も積み重ねている
 書きかけのノート

 その後 私のその記憶回路は
 激しい耳鳴りのうねりと共に
 「むかし聞き覚えたきり」の
 そのメロディを吐き出すばかり
 私の聴覚は破壊されたのだ
 病院の重症のベッドの上で
 あやうい『時』を過ごしていた夢の間に

    まちの たに
    かわは ながれる

 私の聴覚は もはや聞くことはない
 なつかしい人々の声は勿論のこと
 川の流れの水音も 街のざわめきも
 また 風のささやきも
 そして激しい耳鳴りの轟音と共に
 私の時間は押し流されていった
 この一年も
 風の声に気づかぬうちに
 太陽は日ごと輝きを増して
 いつの間にか 外の季節は夏

 行楽だよりは 山の蝉しぐれ
 ふと記憶がかすめる
 山の林間学校

 真夏の太陽よ 光る風よ
 歌っているのか?
 ささやいているのか?
 それとも、叫んでいるか
 ああ、私の心は
 いつしか硬直し始めたろうか
 心よ 永遠なるまことを持つ心よ
 もう再び あの鳥のように
 あの 空を飛ぶ鳥のように
 はばたけはせぬというのか?

    わくらばを……

 古いメロディは
 ときおり甦り
 耳鳴りの奥にかき消されていく
 そして、そんな耳鳴りさえも
 不思議な瞬間に ふと静かになるように
 ある一日 街から程遠くない山の林で
 ふと 蝉しぐれの止むことがあるだろうか
 やがて
 それも すっかりとだえてしまうと
 私の子供の頃からある
 大きな木にあいている洞が
 急に何事か うめき始めるのだ

 きのうの夜
 部屋の灯りに迷いこんできたオニヤンマ
 あれは、何を告げに来たのか
 今ごろ 山の斜面の草の上では
 蝉のぬけがらが
 うつろな『時』を想いながら
 無窮を流れる青い風を
 ひとり じっと見つめているに違いない

 敗残の秋 耳鳴りは
 今日も 私を責めたてる
 狭い庭には ケイトウの赤が
 夏の残り火を燃やしているが
 私は古くさい思い出の辺り
 覚束ない歌をくちずさみながら
 徘徊するばかり
 そして 幻惑の耳鳴りは
 しなびた記憶を反芻する
 果てのない呪文をつぶやいて
 記憶中枢の遠い端末から
 私の もはや知らない歌を
 歌い続ける

     (1979年 神戸市民文芸集『ともづな』)


          

亜無さんの詩では、HPの 「文が空ギャラリー2」 に掲載された 『野の猪』 という詩も好きなのですが、
こちらはまだご本人から了承を得ていませんので、ここには転載しません。
でも、その詩に関連して 過去記事、2006年7月12日 『奇蹟の人』 コメント欄での亜無さんの投稿を御覧戴きたいと思います。
私自身、手話に対する認識が変わりましたので、ちょっと頭の隅にでも置いていただければ…と思います。
( 全部読むと大変だから、その件に関しては8月4日のコメントあたりから読んで戴ければ良いかと思います。)

なお、 「文が空ギャラリー2」 には、一休さんも ‘たそがれ清兵衛’ の名前で真面目に 「詩人・伊東静雄 論」 「ゲーテ論」 を展開しています。
一休さんの別の一面(?)も見ることができます。

あぢさいの径

2007年03月01日 12時36分13秒 | 人のフンドシでブログを書く

大切な人に逢うため六月は
   くもりのち晴れあぢさいの径  未来


2/20 『水木しげる著・猫楠(南方熊楠の生涯)』 記事のコメントに、成沢未来さんが即興で寄せてくださった短歌を元に、昨夜絵を描きました。

花水木さんのイメージを考えていたら女優の中野良子さんが思い浮かび、
ネット検索で中野さんの画像をプリントして参考にしました。
(似てないから絵を見ただけでは わからない
なぜ中野良子さんなのか、私にもわかりません。

未来さんは本当は顔を描かない絵の方が好みかな~とは思ったんですけど、
今回はこんな感じで。
人( ̄ω ̄;) スマヌ


同じコメント欄に発表して戴いた一休さんとmiraiさんの詩も掲載します。
( 人のフンドシでブログを書く )


          


     未来を生きる詩人に捧ぐ  (一休)

  ある柔らかいものが
  形を求めてもがく
  それはサナギが蝶になるために
  優しい陽光を欲しているようだ

  臆してはならない 若い友よ
  君の優しさには 十分な理由があるのだ

  たとえ無縁の人が 君に唾しようとも
  優しさには 戦う理由があるのだと
  君は 自分に言い聞かせねばならない

  ああ あの孤独と朝の陽光は
  ただ君の為に輝いていたのだと
  いずれ君は 知ることになるだろう

  きっと億千の命がそうであったように…。




          



       一休さん返礼   (未来)

   詩人らは今日のひと日を
    
   生なむと

   戦ふ術を身にまとひつつ

               




一休さん・作 花水木様に捧げる詩  『優しい旅人に』 

2007年02月08日 09時39分54秒 | 人のフンドシでブログを書く


      『 優しい旅人に 』    一休

   さあ 荷を負って
   病む母のもとへ 
   再びの故郷へと 道を急ぐ人よ
   (わたしは放浪してるの? それともしがらみの内に?)

   私にはとても云えない
   「誰もが、その願う所に、住むことが許されてはいない」などと

   流れる小川には 小魚がきらめき
   樹々は 葉をふるわし
   そして あなたは 小さな肩を励まし 
   荷を負い直し また道を急ぐ…

   ああ 私には 言い当てることができる
   あなたが そこで 懸命に信じまいとしていることが 何であるかを…

   優しい人よ
   緑の時も 枯れた冬も 
   ひたすら 道を急ぐ あなたよ

   そして私は 言い当てることが出来る

   はるかな 野の彼方で
   またも荷を負い 道を下る あなたよ

   ああ 風も共に 鳴いていたのだと
   鳥も泣き 花も涙して いたのだと 
   私は 言い当てることが出来る



                           


 これは、前回の記事のコメント欄で 一休さんが花水木さんに贈られた詩です。
花水木さんのご主人は5年前に脳卒中となり、現在も左半身が不自由とのことです。
そして今またお母様も脳梗塞となり、高速バス5時間の実家へ見舞う日々です。