(長くてメンドクサイと思われる方は、どうぞスルーでお願いします。)
昭和62年(1987年)発行の本の話です。
この本の著者、西大助(1921年-1998年)は、昭和初期~中期頃に流行ったらしい西式健康法の創始者の三男として生まれました。
父、西勝造の没後は、当時としては莫大な借金を背負って西式健康法普及団体である西会を継ぎました。
本書は西会岐阜支部で発行していた冊子に連載していた随筆をまとめたものです。
著者は子供の頃から成績が悪く、劣等感の強い人間だったようです。
後年、人から「あなたはしっかり者」と言われたときに、相手に言った話として、
私は子供の頃から、だめな人間で、勉強はできないし、掃除当番になってもサボッて逃げるし、ということで、先生に怒られどうし。
軍隊でも毎日殴られていました。
それで、父が亡くなって、いろいろな人から、いろいろと説教され、ああしろ、こうしろと言われましたが、
そういう説教されたり、叱られたりすることには、お蔭さまで子供の頃から慣らされておりましたので、堪えていくことができただけなんです。
少年時代に秀才と言われ、褒められて育っていたら、とても堪えられなかったでしょう。(P158「破局物」も天の声として受け止めよ から)
とあります。
つまり、そういう人だったんですね。
さて、タイトルの 『巷説・逆流の人生』 ですが、まず「巷説」ですが、
「ちまたで言われていること」と、いうほどの意味で「小説」とか「巷談」のことである。
小説は、今日では「全くの作り話」を指すようになり、巷談は「講談」になって、これも作り話ということに今の人は受け取るようになったので、
いろいろと考えて、やや古めかしいが「巷説」として、少しは嘘が入るかも知れないことを、あらかじめお断りしたつもりである。
(P83 地獄が無ければ地獄をつくれ から)
また、「逆流の人生」については、下記の通りです。(長文ですみません)
私の人生は今のところ六十一年間の歳月を閲(けみ)しているわけだが、
これは今の時点に立って過去を眺めて書いていくわけだから、私の時間は逆に流れているわけで、
あと十年もたつと、その時点から再び逆流する。
十年ごとに「一昔たった」と逆流してもよいけれども、一時間ずつ、一分間ずつ、一秒間ずつ、瞬間ずつの逆流でも同じことである。
と、すると、百年たって過去を振り返るのも、一刹那(いっせつな)ごとに振り返るのも同じことで、
人間なんてものは、京に上る途中の峠で、立ち上がった蛙と同じで、通ってきた風景しか見えはしないのである。
蛙が立つと眼がうしろにつくから 「なんだ。京も同じ風景じゃないか」と、がっかりしたわけだが、
人間の目玉も後ろ向きに付いていて、通ってきた道しか見えはしない。
と、すると、自分は未来に向かって歩んでいるつもりであるが、
実は、積み重なっていく過去の堆積(たいせき)物によって、たんに推し進められているだけなのではないか?
そんなふうにも考えられる。
と、すれば、人間、ダイヤモンドの糞をたれては、その堆積の上に乗っていれば、自然に天に届く。
が、汚穢(おわい)の垂れ流しだと、金剛座が出来ずに、天まで台座が保てない、どころか汚穢の中に沈んでしまう。
そこで、人間の、天国まで行けるか行けないか。また地獄に堕ちるか堕ちないか。
その運命は、自分が垂れた糞の質によって決まるのである。
つまり、自分では前に向かって進み、また向上しているつもりであるが、実は一歩も動いちゃいない。
過去という時間が、自分を押し上げているだけのことで、橋の上から川の流れにゴミを捨てれば汚い川。花を投げれば美しい川になる。
それで「逆に流れる人生」と言ったので、読む人はこのことを知られた上で、ご自分の一生を美しい人生として眺め、
死ぬときに「なんてきれいな世界だろう」と、極楽浄土に往って戴きたい。
極楽浄土は、峠の向こうに在ると、思っとったが、また、それでよいのだが、本当は後ろにあったんじゃ。
(P84 地獄が無ければ地獄をつくれ から)
ふーん。どうなんだろ。なんだかなあ…。という気もしないでもないですが、
とりあえず、タイトルの説明だけ。
私が一番面白いと思ったところは、著者が庭で蟻を戦わせた話でした。
長くなったので、その話は次回に。
私、まとめるのが下手だなあ…。
昭和62年(1987年)発行の本の話です。
この本の著者、西大助(1921年-1998年)は、昭和初期~中期頃に流行ったらしい西式健康法の創始者の三男として生まれました。
父、西勝造の没後は、当時としては莫大な借金を背負って西式健康法普及団体である西会を継ぎました。
本書は西会岐阜支部で発行していた冊子に連載していた随筆をまとめたものです。
著者は子供の頃から成績が悪く、劣等感の強い人間だったようです。
後年、人から「あなたはしっかり者」と言われたときに、相手に言った話として、
私は子供の頃から、だめな人間で、勉強はできないし、掃除当番になってもサボッて逃げるし、ということで、先生に怒られどうし。
軍隊でも毎日殴られていました。
それで、父が亡くなって、いろいろな人から、いろいろと説教され、ああしろ、こうしろと言われましたが、
そういう説教されたり、叱られたりすることには、お蔭さまで子供の頃から慣らされておりましたので、堪えていくことができただけなんです。
少年時代に秀才と言われ、褒められて育っていたら、とても堪えられなかったでしょう。(P158「破局物」も天の声として受け止めよ から)
とあります。
つまり、そういう人だったんですね。
さて、タイトルの 『巷説・逆流の人生』 ですが、まず「巷説」ですが、
「ちまたで言われていること」と、いうほどの意味で「小説」とか「巷談」のことである。
小説は、今日では「全くの作り話」を指すようになり、巷談は「講談」になって、これも作り話ということに今の人は受け取るようになったので、
いろいろと考えて、やや古めかしいが「巷説」として、少しは嘘が入るかも知れないことを、あらかじめお断りしたつもりである。
(P83 地獄が無ければ地獄をつくれ から)
また、「逆流の人生」については、下記の通りです。(長文ですみません)
私の人生は今のところ六十一年間の歳月を閲(けみ)しているわけだが、
これは今の時点に立って過去を眺めて書いていくわけだから、私の時間は逆に流れているわけで、
あと十年もたつと、その時点から再び逆流する。
十年ごとに「一昔たった」と逆流してもよいけれども、一時間ずつ、一分間ずつ、一秒間ずつ、瞬間ずつの逆流でも同じことである。
と、すると、百年たって過去を振り返るのも、一刹那(いっせつな)ごとに振り返るのも同じことで、
人間なんてものは、京に上る途中の峠で、立ち上がった蛙と同じで、通ってきた風景しか見えはしないのである。
蛙が立つと眼がうしろにつくから 「なんだ。京も同じ風景じゃないか」と、がっかりしたわけだが、
人間の目玉も後ろ向きに付いていて、通ってきた道しか見えはしない。
と、すると、自分は未来に向かって歩んでいるつもりであるが、
実は、積み重なっていく過去の堆積(たいせき)物によって、たんに推し進められているだけなのではないか?
そんなふうにも考えられる。
と、すれば、人間、ダイヤモンドの糞をたれては、その堆積の上に乗っていれば、自然に天に届く。
が、汚穢(おわい)の垂れ流しだと、金剛座が出来ずに、天まで台座が保てない、どころか汚穢の中に沈んでしまう。
そこで、人間の、天国まで行けるか行けないか。また地獄に堕ちるか堕ちないか。
その運命は、自分が垂れた糞の質によって決まるのである。
つまり、自分では前に向かって進み、また向上しているつもりであるが、実は一歩も動いちゃいない。
過去という時間が、自分を押し上げているだけのことで、橋の上から川の流れにゴミを捨てれば汚い川。花を投げれば美しい川になる。
それで「逆に流れる人生」と言ったので、読む人はこのことを知られた上で、ご自分の一生を美しい人生として眺め、
死ぬときに「なんてきれいな世界だろう」と、極楽浄土に往って戴きたい。
極楽浄土は、峠の向こうに在ると、思っとったが、また、それでよいのだが、本当は後ろにあったんじゃ。
(P84 地獄が無ければ地獄をつくれ から)
ふーん。どうなんだろ。なんだかなあ…。という気もしないでもないですが、
とりあえず、タイトルの説明だけ。
私が一番面白いと思ったところは、著者が庭で蟻を戦わせた話でした。
長くなったので、その話は次回に。
私、まとめるのが下手だなあ…。