完全な球があり、完璧な平面がある。摩擦もない。
この平面上にこの球を転がすと永遠に止まらない。
止まっている球は永遠に止まっており、一度、力が加えられ、運動を始めると永遠に運動している。
この物理学の基礎知識を知った時は新鮮だった。
子供の頃、地球はなぜ落ちないのか不思議だった。
宇宙空間には上も下もない、だから落ちないわけではないけれど、このことを知った時も新鮮だった。
球体に紐をつけてそれをぐるぐる回す。
太陽と地球との関係はこの紐がなくても同じだと言われてもとても理解ができなかった。
紐がなければ球体はどこかに飛んでいってしまうだろう、、、
だが、先生になぜ紐があっても無くても同じなのかわからないと言えなかった。
他の作品を下敷きにして、あるいは意識して、もしくは比較しつつ別の作品を見ると、なんでもない日常のさりげないその作品の風景が、とんでもない恐ろしい風景に変貌することがあります。
これまで関連があまりないと思われた2つの作品を比較してみると、歴史的な影響関係は認められないとしても、深い精神的な共通性がはっきりと目に見えるようになることがあります。
歴史的に影響関係のない2つの作品の、表面的と思われていたモチーフや構図上の類似性が、実は深い精神的な共通性に根ざしているものだということがわかってくる場合があります。
表層的な類似と思われているものに、歴史的な因果関係がないからといって問題にしない態度に出てはいけないと思う。
水平線や地平線は今いる自分の目の高さを示しています。
丘に登ると水平線も追いかけるように上昇し、今までいた町が青い海の屏風を背景として水平線の下側にあるのが分かります。
モネの1880年代の海の絵には、水平線が画面の上方にあるものが多く見られます。
モネの1880年代の海の絵に水平線が画面の上方に見られるようになるのはジャポニスムの影響と考えられています。日本の伝統的な絵画では、画家は自分の目の位置を意識しているとは思えませんが、俯瞰的な視点から、遠景は画面の上方に、近景は下方に描かれているものが多く見られ見られます。
日本の伝統的な絵画では明瞭な水平線は殆んど見られませんが、おそらく西洋の線遠近法の影響で次第に画家の視点も下降し、水平線や地平線も登場して画面の下方に描かれる傾向を見せます。画家も次第に自分の眼の位置というものを意識して対象を描いていくようになります。
モネの晩年には西欧のルネサンス以来の(自我の誕生とともに生まれた)線遠近法的な空間が壊れていきます。
モネの作品における水平線の上昇は、これとは無関係ではないはずです。
東西美術における互いに反対な傾向を見せる水平線の上昇と下降は、西欧的な自我のゆくえの問題と切り離せません。
@tikarato
アムスのゴッホ美術館の「ムンク:ゴッホ展」
作品影響の歴史的関係はひとまず措くとして、一見表層的なモティーフや構図の類似性も深い精神的なつながりがあること、ムンクを通してゴッホを照射すると、ゴッホのさりげない風景にも深い孤独の影が浮かび上がってくる。