川上澄生の作品の中でよく知られているものではないが、昭和22年の絵本に『にかのる王傳』がある。「大聖」(キリスト)生誕に関連した内容のもので、日本ではあまり馴染みのない美術主題が扱われている。
キリスト生誕に関しては、三王礼拝図の主題がよく知られている。三王とは「マギ」と呼ばれる「東方の三博士」のことであり、英米圏では「三賢人」(The Tree Wise Men)とも言われている。
澄生の作品にも三王礼拝図を主題にした幾つかの作品がある。しかし澄生が『にかのる王傳』で扱おうとしたのは、まさしくこれら三賢人の他に実は四番目の賢人(The Fourth Wise Man)がいたという、「もう一人の賢人」の話であり、三王礼拝図の変形譚で、『聖書』それ自体の内容からはいっそう離れているものだ。
もう一人の賢人については、ヘンリー・ヴァン・ダイク(1852-1933)の“The Other Wise Man”(1896)の話がキリスト教会などで比較的よく知られている。そしてこれを下敷きにしたその他の創作もあり、クリスマスの頃から公現祭(エピファニー)の頃にかけて、真の贈り物(あるいは愛情)とは何か、真の賢者とはどのような人かといった内容をもつO.ヘンリーの有名な『賢者の贈り物』などと同様に、欧米では教会やテレビ番組などでも紹介されることがあるようだ。
ところで、澄生の『にかのる王傳』では贈り物のことについては触れられていないが、実は澄生のこの絵本は、ヴァン・ダイクの『もう一人の賢人』の粗筋によく似たものである。すなわち、『にかのる王傳』では、羊飼いが見馴れない星を見て、四人の王たち(ばるたざる・がすぱる・めるきおる・にかのる)が、「大聖」のご出生を拝しようとして出発する。しかし、「にかのる王」(ヴァン・ダイクの物語ではArtabanという賢人)は、なすべき善行を実践していたため、三人の王に33年も遅れて「耶路撒冷」(エルサレム)に到着することになった。その結果、生誕には間に合わず、かえって「大聖」臨終の日の劇的場面に遭遇するという物語の筋書の根本部分がヴァン・ダイクのフィクションとされる物語に重なるのである。
澄生はヴァン・ダイクのアルタバンの物語を知っていたのだろうか。澄生の絵本の筋書が彼自身の創作でない限り、もちろんこの物語は、何らかの典拠があるものと思われる。その場合、彼の『にかのる王傳』の典拠そのものが、ヴァン・ダイクのアルタバンの物語からの変形譚とも考えられるが、何か古い共通の源泉があるとか、そうしたことも考えられなくはない。澄生が典拠としたであろう『にかのる王傳』の詳細はまだ解き明かされていないようであるが、もし典拠があるものなら、これは、いずれ明らかになることだろう。
さて、典拠の問題は措くとして、澄生は、なぜ「第四の賢人」である「にかのる王」の物語を描こうとしたのであろうか。
『にかのる王傳』は「私刊」として刊行されたもので、限定部数等は不明である。洋装本と和装本の二種類があり、墨摺り手彩色の作品である。この小論は、これを、川上澄生の芸術における「受け容れられない愛」のモティーフとの関連において考察し、川上澄生芸術の一つの特質に触れてみたい。
澄生は、実は、その初期の代表的な作品から愛に関連した主題を幾つも描いてきた。特に愛が受け容れられない哀れな男の気持ちは、時にはユーモラスに戯画的に、時にはフェティシズム的な感覚を伴って過激に表現されることもあった。
澄生作品の中で愛に関連したモティーフがその最も単純な形で、誰にでも解り易くユーモラスに表現されているのは三部作の「的」(昭和3年)のような作品だろう。ここでは男は、キューピッドが放つ矢の「的」に過ぎないものとして表現されている。そのうちの一点では、矢が当たった青髯の男が、「へのへのもへじ」のだらしない顔となり、足が地に付かず、魂はそこに描かれている2匹の黄色い蝶が象徴しているように空中に浮遊し、精神はその帽子が暗示しているように頭から抜け落ちているようである。それなのに日傘を持った女は、さほどの感動もなく、さっさと立ち去る様子であり、頬杖をついたキューピッドだけが楽しそうに青髯の男を見ているという長閑でユーモラスな愛の景色が見られる。
つまり男女の愛は、せいぜい気紛れなキューピッドが放つ「的」程度のものとしてしか表現されていない。それでも男は魂が抜き取られたようになるが、女のほうは無関心で相思相愛というわけにはいかない。ユーモラスでもっと単純な表現の「求愛」(大正15年)においても、男は花束を持って追いかけるが、女はただ逃げ去るだけである。
「受け容れられない愛」のモティーフは、詩集『青髯』(昭和2年)からも読み取れる。『青髯』で有名なのは、シャルル・ペローや『グリム童話』(初版)であるが、澄生の詩「青髯」は、「髯がこわくなり候よ/青髯となり候よ/さればとて/髯はとげではござらぬよ/薔薇の枝には/とげあれど」と、「薔薇の枝」である「とげ」のある女性に先ずはささやかな抵抗を試みる。しかし、これは、青髯となった自分をどうか恐れないで(誤解しないで)受け容れてくださいよ、という女性へのメッセージを軽く表現したものに他ならないだろう。これが詩集の冒頭で最初の主題となって提示される。女性が「薔薇の枝」で「とげ」があるというのは、いかにも平凡、ありふれた比喩であり、ささやかな皮肉に過ぎないものだから、あまり本気の表現ではなく、その裏に女性への憧憬があることも察せられる。それかあらぬか女性への強い憧れは、「わが願ひ」(リズムとリフレーンに大きな違いがあるが「初夏の風」とほぼ同じ内容の詩句)として次の詩で、第二主題となってはっきりと出現する。そして、その展開部である三番目の詩で、音楽の好きな澄生らしく「恋慕の音階」を二つ奏でようと試みるが、これらは不首尾のようである。終結部では終に自らが奏でるのではなく、今度はひたすら古風な月を見ながら古風に鳴く虫の音を聴く側に廻り、常套句を使いながら恋慕の気持ちを埋葬していく。この意味で「古風な月」のタイトル文字がお盆提灯の画像に重ねられているのは象徴的であり、自らも何やら「古風」と、いささか憫笑を込めて、その孤独な恋を規定せざるを得なかったのだろう。
こうして、この作品はいわば音楽的構成を思わせるような形式(再現部はないが、主題の提示、展開、終結部がある)と、楽器の演奏と断念(孤独に虫の音の拝聴に向かう)という愛の音楽的比喩や連想を含む一連の作品として制作されているようである。
しかし、澄生は決して単純に女性の無垢を信じていたわけではない。そのことは、『青髯』の扉に双頭のプロフィールで淑女を表現し、左頭の淑女は平気で舌を出していることからも明らかである。
『青髯』は「詩集」と称しているが、このように短い詩が四編しか収められていないものである。しかし、これらの四編は、いずれも澄生にとって重要だった詩と音楽と版画とが、単純な形式ながら総合されたような趣があり、きわめて機智に富んだ形式で制作されていることがわかる。
小林利延氏が「処女詩画集『青髯』の成立」(『詩人の川上澄生』鹿沼市立川上澄生美術館)で既に指摘しているように、この作品は四編の詩を連続的に読取って解釈することでいっそう面白くなるものであり、本稿で言う「受け容れられない愛」のモティーフもより明確になるものと考えられる。
もちろん澄生の作品には男女の合一が表現されていると思われる強い愛の表現が見られることもある。澄生の初期の作品、萬鉄五郎を想起させるような「抱擁」(大正15年頃)は、おそらく男女が固く結ばれあっている画像と思われる造形力のまさった立体派風の抽象的な作品だが、これは澄生にしては、むしろその作風とともに珍しい直接的な愛の作品となっている。(続く)
キリスト生誕に関しては、三王礼拝図の主題がよく知られている。三王とは「マギ」と呼ばれる「東方の三博士」のことであり、英米圏では「三賢人」(The Tree Wise Men)とも言われている。
澄生の作品にも三王礼拝図を主題にした幾つかの作品がある。しかし澄生が『にかのる王傳』で扱おうとしたのは、まさしくこれら三賢人の他に実は四番目の賢人(The Fourth Wise Man)がいたという、「もう一人の賢人」の話であり、三王礼拝図の変形譚で、『聖書』それ自体の内容からはいっそう離れているものだ。
もう一人の賢人については、ヘンリー・ヴァン・ダイク(1852-1933)の“The Other Wise Man”(1896)の話がキリスト教会などで比較的よく知られている。そしてこれを下敷きにしたその他の創作もあり、クリスマスの頃から公現祭(エピファニー)の頃にかけて、真の贈り物(あるいは愛情)とは何か、真の賢者とはどのような人かといった内容をもつO.ヘンリーの有名な『賢者の贈り物』などと同様に、欧米では教会やテレビ番組などでも紹介されることがあるようだ。
ところで、澄生の『にかのる王傳』では贈り物のことについては触れられていないが、実は澄生のこの絵本は、ヴァン・ダイクの『もう一人の賢人』の粗筋によく似たものである。すなわち、『にかのる王傳』では、羊飼いが見馴れない星を見て、四人の王たち(ばるたざる・がすぱる・めるきおる・にかのる)が、「大聖」のご出生を拝しようとして出発する。しかし、「にかのる王」(ヴァン・ダイクの物語ではArtabanという賢人)は、なすべき善行を実践していたため、三人の王に33年も遅れて「耶路撒冷」(エルサレム)に到着することになった。その結果、生誕には間に合わず、かえって「大聖」臨終の日の劇的場面に遭遇するという物語の筋書の根本部分がヴァン・ダイクのフィクションとされる物語に重なるのである。
澄生はヴァン・ダイクのアルタバンの物語を知っていたのだろうか。澄生の絵本の筋書が彼自身の創作でない限り、もちろんこの物語は、何らかの典拠があるものと思われる。その場合、彼の『にかのる王傳』の典拠そのものが、ヴァン・ダイクのアルタバンの物語からの変形譚とも考えられるが、何か古い共通の源泉があるとか、そうしたことも考えられなくはない。澄生が典拠としたであろう『にかのる王傳』の詳細はまだ解き明かされていないようであるが、もし典拠があるものなら、これは、いずれ明らかになることだろう。
さて、典拠の問題は措くとして、澄生は、なぜ「第四の賢人」である「にかのる王」の物語を描こうとしたのであろうか。
『にかのる王傳』は「私刊」として刊行されたもので、限定部数等は不明である。洋装本と和装本の二種類があり、墨摺り手彩色の作品である。この小論は、これを、川上澄生の芸術における「受け容れられない愛」のモティーフとの関連において考察し、川上澄生芸術の一つの特質に触れてみたい。
澄生は、実は、その初期の代表的な作品から愛に関連した主題を幾つも描いてきた。特に愛が受け容れられない哀れな男の気持ちは、時にはユーモラスに戯画的に、時にはフェティシズム的な感覚を伴って過激に表現されることもあった。
澄生作品の中で愛に関連したモティーフがその最も単純な形で、誰にでも解り易くユーモラスに表現されているのは三部作の「的」(昭和3年)のような作品だろう。ここでは男は、キューピッドが放つ矢の「的」に過ぎないものとして表現されている。そのうちの一点では、矢が当たった青髯の男が、「へのへのもへじ」のだらしない顔となり、足が地に付かず、魂はそこに描かれている2匹の黄色い蝶が象徴しているように空中に浮遊し、精神はその帽子が暗示しているように頭から抜け落ちているようである。それなのに日傘を持った女は、さほどの感動もなく、さっさと立ち去る様子であり、頬杖をついたキューピッドだけが楽しそうに青髯の男を見ているという長閑でユーモラスな愛の景色が見られる。
つまり男女の愛は、せいぜい気紛れなキューピッドが放つ「的」程度のものとしてしか表現されていない。それでも男は魂が抜き取られたようになるが、女のほうは無関心で相思相愛というわけにはいかない。ユーモラスでもっと単純な表現の「求愛」(大正15年)においても、男は花束を持って追いかけるが、女はただ逃げ去るだけである。
「受け容れられない愛」のモティーフは、詩集『青髯』(昭和2年)からも読み取れる。『青髯』で有名なのは、シャルル・ペローや『グリム童話』(初版)であるが、澄生の詩「青髯」は、「髯がこわくなり候よ/青髯となり候よ/さればとて/髯はとげではござらぬよ/薔薇の枝には/とげあれど」と、「薔薇の枝」である「とげ」のある女性に先ずはささやかな抵抗を試みる。しかし、これは、青髯となった自分をどうか恐れないで(誤解しないで)受け容れてくださいよ、という女性へのメッセージを軽く表現したものに他ならないだろう。これが詩集の冒頭で最初の主題となって提示される。女性が「薔薇の枝」で「とげ」があるというのは、いかにも平凡、ありふれた比喩であり、ささやかな皮肉に過ぎないものだから、あまり本気の表現ではなく、その裏に女性への憧憬があることも察せられる。それかあらぬか女性への強い憧れは、「わが願ひ」(リズムとリフレーンに大きな違いがあるが「初夏の風」とほぼ同じ内容の詩句)として次の詩で、第二主題となってはっきりと出現する。そして、その展開部である三番目の詩で、音楽の好きな澄生らしく「恋慕の音階」を二つ奏でようと試みるが、これらは不首尾のようである。終結部では終に自らが奏でるのではなく、今度はひたすら古風な月を見ながら古風に鳴く虫の音を聴く側に廻り、常套句を使いながら恋慕の気持ちを埋葬していく。この意味で「古風な月」のタイトル文字がお盆提灯の画像に重ねられているのは象徴的であり、自らも何やら「古風」と、いささか憫笑を込めて、その孤独な恋を規定せざるを得なかったのだろう。
こうして、この作品はいわば音楽的構成を思わせるような形式(再現部はないが、主題の提示、展開、終結部がある)と、楽器の演奏と断念(孤独に虫の音の拝聴に向かう)という愛の音楽的比喩や連想を含む一連の作品として制作されているようである。
しかし、澄生は決して単純に女性の無垢を信じていたわけではない。そのことは、『青髯』の扉に双頭のプロフィールで淑女を表現し、左頭の淑女は平気で舌を出していることからも明らかである。
『青髯』は「詩集」と称しているが、このように短い詩が四編しか収められていないものである。しかし、これらの四編は、いずれも澄生にとって重要だった詩と音楽と版画とが、単純な形式ながら総合されたような趣があり、きわめて機智に富んだ形式で制作されていることがわかる。
小林利延氏が「処女詩画集『青髯』の成立」(『詩人の川上澄生』鹿沼市立川上澄生美術館)で既に指摘しているように、この作品は四編の詩を連続的に読取って解釈することでいっそう面白くなるものであり、本稿で言う「受け容れられない愛」のモティーフもより明確になるものと考えられる。
もちろん澄生の作品には男女の合一が表現されていると思われる強い愛の表現が見られることもある。澄生の初期の作品、萬鉄五郎を想起させるような「抱擁」(大正15年頃)は、おそらく男女が固く結ばれあっている画像と思われる造形力のまさった立体派風の抽象的な作品だが、これは澄生にしては、むしろその作風とともに珍しい直接的な愛の作品となっている。(続く)