美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

川上澄生の作品 受け容れられない愛のモティーフ(3)

2015-12-26 13:52:18 | 日本美術
さて、最後にここで絵本『にかのる王傳』に戻る。この最終場面には、イエスの言葉「えり、えり、らま、さばくたに」が刻印されているが、これは、よく知られているように、一般には「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたもうか」の意である。澄生の「にかのる王」は、Artabanの物語とはやや異なり、イエスの磔刑場面に立ち会って、十字架上の七つの言葉のうちの一つを聞いたという設定になる。これは、イエスの言葉であると同時に、とうとうベツレヘムでの生誕に間に合わず、不思議に意味深く臨終を見届けるにとどまった「にかのる王」の内面にも重く響く言葉となったであろう。さらに言うなら、これは、「受け容れられない愛」を生涯ずっと抱え込んできた澄生の深部にも通じていた言葉ではなかろうか。

しかし、イエスが神から見放されていないように、ヴァン・ダイクのArtabanはもちろん、「にかのる王」もまたイエスから見捨てられたのではないだろう。少なくともそういう主題でないことは明らかである。33年も「にかのる王」が遅れてきたことは、むしろ主の意思に自ずと従っていたことの証であったに違いない。そして、澄生もまた55年間、「受け容れられない愛」を抱き続けてきた作家、一人の男であった。

わが恋を知り居る人は皆死して我ハ七十六才となる
わが恋人とあいてもお互いにわからざるべし五十五年へぬ
わが恋いし君も七十過ぎたらん我は七十六才となる
(以上「短歌」『川上澄生全集』第14巻)

「えり、えり、らま、さばくたに(わが神、わが神、なぜ私を見捨てたもうか)」という人の子イエスの悲痛な言葉には、澄生の多大な共感が込められていたのではなかろうか。先の短歌に見られるように、55年経っても、なお受け容れられなかった自分の愛の意義を改めて問うのが川上澄生である。そして、33年遅れて主のもとに到達したのが、「にかのる王」であり、彼が『にかのる王傳』を制作した時にも、「受け容れられない愛」を感じてから30年の歳月はとうに経ていたのである。


〔補説〕
(一)澄生にとっての「受け容れられない愛」、これは異性への愛が主要なものであるが、必ずしもそれだけではない。少年に対する愛を示すような詩的断章(大正14年3月6日)も残されているし、何よりも大正4年に亡くなった母への愛、そして大正6年に再婚した父との関係も、澄生の「受け容れられない愛」を考察する上では重要であろう。

澄生は、大正6年のカナダ行きに際して、再婚した父親から言われた「嫌になったら帰って来い、嫌でなければ帰って来なくてもよい。まさか飢え死にはしないだろう」という言葉をわざわざ『履歴書』に書き残しているほどである。また、こうも『履歴書』に記している。「母は大正4年6月5日に死んだ。私は何もしないで毎日遊んでいた。父は何も云わなかった。」

特に母を亡くしてからの澄生にとっての「父の愛」という問題は、『にかのる王傳』にも新たに結びつく「父と子の関係」における彼の「受け容れられない愛」を改めて考察する上で、やや別個の興味深い問題を提起するものだろう。

(二)川上澄生の『雪のさんたまりや』(昭和36年)と新村出の『南蛮更紗』にある「雪のサンタマリヤ」との関係は、澄生の『にかのる王傳』とヴァン・ダイクのアルタバンの物語との関係とは異なっている。後者の関係は、本稿で見てきたように筋書きの根本部分がパラレルなものであるのに対して、前者の関係はそのようなものではない。一方、澄生がヴァン・ダイクを知っていたかどうかは今のところ明らかではないが、澄生が新村の著作から影響を受けたことはよく知られている事実である。

しかし、澄生の『雪のさんたまりや』と『にかのる王傳』は、いずれも『聖書』から直接取材した作品ではないから、伝統的なキリスト教的主題に類例を見出すことは難しい。だが、『にかのる王傳』は、ともかくも「三王礼拝」の変形譚として「もうひとりの賢人」という西洋に共通する原型が見出された。

澄生の『雪のさんたまりや』における蝶(変容した大天使)がマリアの口から入って処女懐胎させるというモティーフと、天における焦がれ死にした「呂そんのおう」とマリアとの結婚という結末は、キリスト教的な観点からは全く破天荒な内容であり、同時に想像力溢れたイメージとなっている部分であるが、これらは隠れキリシタン文書『天地始之事』に明らかに結びつくものである。正統的なキリスト教でなく、隠れキリシタンの伝承にこそ心動かされた澄生の姿勢がよく解る作品である。

(三)澄生の『ヨナ物語』は、『にかのる王傳』や『雪のさんたまりや』に比べれば、あまり重大な変更が加えられることなく、一つの典拠から取材された作品としてもよいものであろう。もちろん、『旧約聖書』の「ヨナ書」からである。

しかし、率直に言って『旧約』における「ヨナ書」の意味内容やその特質が、澄生による6場面だけで伝えられたかどうかには大いに疑問が残る。特に『ヨナ物語』の最終場面が「一夜にしてそのふくべ枯れヨナ神の御心を悟りてひれ伏すこと」としたのは、ふくべ(今日の訳では「とうごま」)が枯れたのを見て、ヨナが神の御心を直ちに悟ったわけではないので、神とニネベの国や民に対するヨナの複雑な心理状態や態度を単純化し過ぎているように見える。むしろ最終場面では、神に向かってヨナがとった不満な態度をそのまま表現して終わったほうが絵を読取る者に意外の感を起こさせ、「ヨナ書」の本質的内容を示唆しえたはずである。澄生は、「ヨナ書」を纏めるのにやや急であったのではないか。

『にかのる王傳』と『雪のさんたまりや』では、物語の主人公の名が、キリシタン文化や文学的なキリシタン趣味を擬古的に反映させるかのように平仮名で表記されている。この点でも『ヨナ物語』とは異なる。

とは言え「ヨナ書」は、一面において、神に不満や怒りを示す預言者ヨナの独特な性格を表しているものであるから、澄生にとって、「父と子の関係」からしても、大変興味深い内容のものであったろうと想像される。それゆえ、澄生が『ヨナ物語』を制作したこと自体には、大変意義深いものが感じられる。

(四)なお、小論の主旨と直接関係ないが「ナタルの前夜」におけるローマ字は次のように読める。「ガラサみちみちたもふマリアに御礼をなし奉る。御あるじ御身とともにまします。女人の中にをひてわきてご果報いみじきなり。」
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川上澄生の作品 受け容れられない愛のモティーフ(2)

2015-12-26 12:14:10 | 日本美術
しかし、作者の女性に対する強い想いは、初期の様々な版画や詩にも時にフェティシュな感覚を伴って大胆に表現されている。画面上方に大きな一つの眼があり、画面下方に女性の肩から上を背面から捉えた「うなぢ」(大正12年)には強い性的願望がユーモラスな詩句で塗(まぶ)され、さながら覗き見趣味的に表現される。女性を凝視し、女性に濃密に触れたいという感覚は、ここでは自分の眼をダニに変身させている。

あでやかな/おんうなぢ/ああわがまなこ/だにとへんじて/くひいったわ

また、西洋の伝統的な主題を借りた「レダと白鳥」(大正13年)のような作品も、女性との接触願望があからさまに表現されているものであろう。さらに、桃を四つの視点から描いたものに過ぎないように見える水彩画「桃」(1928年7月23日の年記がある作品、『鹿沼市立川上澄生美術館開館記念「ガラス絵と肉筆の川上澄生」』所収)なども、何の変哲もないタイトルながら、その実、対象のフォルム上の類似性などから、それを視覚的・感覚的な性的対象の詩的=絵画的隠喩として表現しているのではないかと思われ、フロイト的な解釈を誘うものである。

澄生がフェティシズムという言葉を知っており、特に若い頃にそうした感覚を誇張して創作していたことは、『退屈詩篇』に「Fetishism」そのもののタイトルがあることによって、ことさら証拠を挙げて説明するまでもない。澄生のフェティッシュなまでの女性への執拗な関心は、かくして「探偵趣味」にまで結びつくことがある。

あなたの指紋のべつたりとついて居るクリームの瓶/これも警視庁にだつてありやしない/あなたの可愛い手をつつんだ手袋/これはなかなか大切です/毎日あなたと握手が出来るといふわけだ(「Fetishism」)

この詩におけるかなり雄弁な語り口は、なぜか名探偵なみで、事件解決時に向かうその台詞(犯人に対して時に快感を伴って語られる)を連想させて、なかなか面白い。その他に、敢えて上品を装わない擬態語や擬音語を伴ったいくつもの詩があり、澄生の募る恋慕心はやや猟奇的な空想上の殺人趣味にまで比喩的に直結、展開していく。

あんまり間近に/頬ぺたが見えるので/私は とろとろ とろけ出し/…
ふらふらと たをれかかり/ぺたつと へばりついて/ぺろぺろ ぺろぺろ
なめたいです(「頬」『退屈詩篇』)

どんよく なる 僕の食慾は/あなたの顔を食べ あなたの顔を食べ/
ことに おいしい あなたの眼を食べ/あなたの頬を食べ あなたの鼻を食べ /…それで僕の恋慕心は ますます 肥るばかりです(「顔」『退屈詩篇』)

澄生の代表作に「顔」(大正15年)という有名な版画がある。
この作品には「大勢の顔は/塵芥の如く流れ/あなたの顔のみ/花の如く ああ花の如く/夕暮れの街に明るい」との詩句が施されているので、特に先の『退屈詩篇』における「顔」の詩に結びつくことはない。これで殆んど完結していると思われるからである。

しかし、この作品の左端に登場する上半身が縦半分に断ち切られている紳士は画面の中でどのような意味をもつのだろうか。夕暮れの街を歩いており、この少女を発見した紳士には違いないと思われるが、同時に画面中央に堂々と明るく据えられた少女に対して、文字通りその姿を半ば隠して、ずいぶん遠慮がちに画面の端に登場している。これは画中の詩を捧げている詩人なのだろうか。とすれば、この紳士は、まさに「詩人=探偵」の姿ではなかろうか。探偵であれば、突然のごとく街角の現れ、二人の出遭いも偶然的なものに見えよう。紳士の姿はスナップ・ショット的に画面の端で断ち切られ、そのように表現すれば、少女に強い関心を抱きながらも、彼が一見無関心、無関連を装っていることも強調できるだろう。シルエットの紳士とハーフ・シャドーの少女の暗い影とが共有されている画稿(清新なイメージの完成作とは非常に異なる印象をもつ)もあり、これは二人をやや陰鬱に内面的に結び付けているように見える。

このように見ていくと、この紳士(詩人=探偵)と少女との関係は、澄生自身の姿と憧れの女性との関係が微妙に投影されたものという見方もできなくはない。「あなたの顔を食べ、/ことに おいしい あなたの眼を食べ」たいと、内心では猟奇趣味的な表現を抑えきれないほどの強烈な恋情をもつ「顔」の詩人は、ここでは、一見偶然通りかかって無関心を装う「詩人=探偵」の紳士として表現されているように筆者は受取る。この関係は、「異国春光」(大正13年)における前景に大きく登場する三人の女性たちと、中景部にそれに対する無関心を装って散歩する作者自身の姿と目される人物(竹山博彦「作品解説」『朝日美術館川上澄生』参照)との関係においても既に窺われる。澄生の作品において女性への強い関心と無関心の表現とは結局同一のものであり、表裏の関係にあるものではなかろうか。

ところで、女性を探索する「詩人=探偵」のイメージ上の結びつきは、澄生の芸術にとって決して突飛なものではないことに留意すべきである。彼がカナダに携行して愛誦したはずの『月に吠える』の詩人・萩原朔太郎も、「殺人事件」の中で、「私の探偵」は「こひびとの窓からしのびこむ」。そして「かなしい女の死体のうへで、つめたいきりぎりすがないてゐる」のを聞き、「探偵は玻璃の衣裳をきて、街の十字巷路を曲がった」とある。「顔」の左端部に現れる「詩人=探偵」も、朔太郎の「私の探偵」のように「十字巷路(よつつじ)」に佇んでいるのではなかろうか。

「春の伏兵」(大正13年)では、素肌の女性が草むらの中から「伏兵」として現れる(構想過程からすると兵士を誘うためとの説もある)のだが、これも無意識のうちにも至るところで女性の秘密の姿を追い求めている「詩人=探偵」としての澄生の眼が現実に偶然発見したものか、想像力によって発見しようとしていたものに違いない。もっとも「詩人=探偵」は、「伏兵」に現実に遭遇しても、おそらく密かに歓び、そして立ち去るだけであろうが。

しかし、澄生自身の率直な恋情は、「初夏の風」(大正15年)の風や、「鬼ごと」(昭和3年)の鬼(あるいは「パンとニンフ」のパンの姿)となって、女性の前に後に立ちはだかり、追いかけたいというイメージとなってさらに高度に結実していく。ここでは、探偵というよりも、むしろ空想上のストーカーに近い。しかし、これが詩的に昇華されていくのが初期の澄生の世界である。

かぜとなりたや/はつなつのかぜとなりたや/かのひとのまえにはだかり/ かのひとのうしろよりふく/はつなつのはつなつの/かぜとなりたや(「初夏の風」)

鬼ごとの 鬼となりたや/鬼となりてあの人を追ひ/あの人のみを追ひ/鬼ごとなれば 鬼にてあれば/あの人を抱きすくめん(「鬼ごと」)

男性の女性に対する果てしない憧れと願望は、「探偵趣味」的なものから風となり鬼(パン)となって女性を追いかけていくというように、限りなく広がっていく。これら二つの版画作品においては、画中の詩(ただし栃木県立美術館の「鬼ごと」には詩は添えられていない)における詩作品としてのリズムも最上のものとなり、リフレーンも心地よい。そして、むき出しの男の欲望も、より自然な世界のものに、あるいは神話的もしくは遊戯的な世界のものに置き換えられていく。(続く)
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12月25日(金)のつぶやき

2015-12-26 03:21:36 | 日々の呟き

川上澄生の作品  受け容れられない愛のモティーフ goo.gl/5So4OS


イエスの生誕に33年遅れて到着した4番目の王とは?
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