シモキタのtokyoboy

下北沢に居を構える初老オジのエクスサイズ、呑み歩き、美術館巡りなどの備忘録生活記録ブログ、含む膝蓋骨骨折リハビリ記録。

向島百花園: 隅田川七福神、福禄寿神

2016-01-16 | 七福神シリーズ他

向島百花園は、文化元年(1804)佐原鞠鵜が開園しました。国指定文化財です。百花園に集まる江戸の町民文化を代表する文化人達の発案で隅田川七福神巡りが考案され、佐原鞠鵜が本草の神として愛蔵し信仰していた福禄寿尊が、隅田川七福神の福禄寿尊として、百花園庭内に祀られています。

が何故百花園なのに隅田川七福神と関係しているか、を物語っています。

個人的には凄く小さい時祖父母に連れられてきた記憶がありますが、初訪といって過言ではないほど昔の話。

 

この百花園、東武と関係があるのか、とぼんやり思っていましたが、今は東京都管轄なんですねえ。

 

江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
 
 開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。

そして、

百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
 
 民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。

とのこと。

この日は松の内だからか、入園無料でした!


なお、頂いたご朱印に「花やしき」とあってので、浅草のそれと関係あるのかしらん、と訝しく思いましたが、

元々こちらが「花屋敷」と開園当初から呼ばれていたもので、

その後浅草花やしきが開園した際の経緯は以下の通り:

江戸末期の嘉永年間(1848-1854)に植木屋・森田六三郎が始めた観覧用の庭園で、小沢詠美子著『江戸ッ子と浅草花屋敷: 元祖テーマパーク奮闘の軌跡』(小学館 2006)によると花屋敷と号をつける至ったことについて明治31年(1898年)に刊行した『新撰東京名所図絵』で先に向島百花園がすでに花屋敷を名乗っており、紛らわしいという苦情があっても東叡山主輪王寺宮の庇護でのご許可である、としていたことが記されているとしている。

だそうな。

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