薪能で葵上を見ての感想、四回目。紫式部の原典を世阿弥流に換骨奪胎し中世の武家社会の風土に移し替えた能の舞台。中世武家とは「恨み・嫉妬」直球でぶん投げる六条の御息所。この豪腕な生き霊に対して、ガチンコの中世型修験者「横河の小聖」が祈祷により、舞台上では祈り数珠の響きでかっ飛ばしたという筋立てでした。この直球VS真っ向大振りの勝負が、世阿弥を支持する武士階級の意識に合致している。今様に喩えるならクルーン対ノリ。ちょうどありましたよ、10月4日(巨対中、東京ドーム)ノリがかっ飛ばして逆転3ラン、あれはすごかった。本筋に戻ります;
原典にある右に左にブレまくりの色男源氏の葛藤など能にはみじんも出ていません。武家男子たるは白黒はっきりとことん突き詰める、躊躇逡巡はありえません。これが鎌倉から江戸期(明治初期)まで六百年続いた武士の心情でした。一例を挙げれば細君が口答えしたからと一刀で切り捨てた黒田清隆(明治11年東京麹町の事件、不問にされるどころかよくヤッターッで後に枢密院、大勲位まで登った)
源氏から能葵上への変遷をまとめて「矮小化」「土俗化」と評しましたが、カリスマ世阿弥のこと、これには批判があろうかと。そこで、
矮小化のかわりに「凝縮」「昇華」ではいかがでしょうか。六条の御息所の深層心理にある恨みを能舞台のなかに、とくにシテの奇妙な節回し、立ち上がりと下がりの微妙な息遣い。それと面の「泥眼」の妖怪さ。これらに人間の持つおどろしい恨み心を凝縮していることと、能舞台での総合として芸術性への昇華とつながっている。ヤッパ能なので舞台総合で評価しないと。中世の所領分捕りの戦に明け暮れていた武士階級、殺伐とした時代を背景にした不安な精神風土の救いとも読める。世阿弥を代表する作品とおもいます。
蛇足ですが、読み返して1と2には整合がありません。1の時点では原典とここまで差があろうとは思いませんでした。無学な点を反省しても遅かった、まるっきり別の作品だったと知ったのは2を書くとき。文脈を整合させるにできない、2を書き出せない状態。意気喪失して6時間ボッケとしてました。世阿弥の毒気に当てらてしまいました。
さてHPの部族民通信ではイザナギイザナミ神話をモチーフにした長編詩「たはけの果て黄泉の別れイザナギ」を掲載しています。奇しくもこの長編詩、原典古事記を換骨奪胎しています。愛と死、近親相姦と罰、生界と異界(黄泉)の交流をテーマにしています。ここでも芸術性が「凝縮」「昇華」しているので訪問してください。こちらも毒気があります~。(HPには左のブックマークから入ってください)
(薪能葵上のシリーズはこれで終了です)
原典にある右に左にブレまくりの色男源氏の葛藤など能にはみじんも出ていません。武家男子たるは白黒はっきりとことん突き詰める、躊躇逡巡はありえません。これが鎌倉から江戸期(明治初期)まで六百年続いた武士の心情でした。一例を挙げれば細君が口答えしたからと一刀で切り捨てた黒田清隆(明治11年東京麹町の事件、不問にされるどころかよくヤッターッで後に枢密院、大勲位まで登った)
源氏から能葵上への変遷をまとめて「矮小化」「土俗化」と評しましたが、カリスマ世阿弥のこと、これには批判があろうかと。そこで、
矮小化のかわりに「凝縮」「昇華」ではいかがでしょうか。六条の御息所の深層心理にある恨みを能舞台のなかに、とくにシテの奇妙な節回し、立ち上がりと下がりの微妙な息遣い。それと面の「泥眼」の妖怪さ。これらに人間の持つおどろしい恨み心を凝縮していることと、能舞台での総合として芸術性への昇華とつながっている。ヤッパ能なので舞台総合で評価しないと。中世の所領分捕りの戦に明け暮れていた武士階級、殺伐とした時代を背景にした不安な精神風土の救いとも読める。世阿弥を代表する作品とおもいます。
蛇足ですが、読み返して1と2には整合がありません。1の時点では原典とここまで差があろうとは思いませんでした。無学な点を反省しても遅かった、まるっきり別の作品だったと知ったのは2を書くとき。文脈を整合させるにできない、2を書き出せない状態。意気喪失して6時間ボッケとしてました。世阿弥の毒気に当てらてしまいました。
さてHPの部族民通信ではイザナギイザナミ神話をモチーフにした長編詩「たはけの果て黄泉の別れイザナギ」を掲載しています。奇しくもこの長編詩、原典古事記を換骨奪胎しています。愛と死、近親相姦と罰、生界と異界(黄泉)の交流をテーマにしています。ここでも芸術性が「凝縮」「昇華」しているので訪問してください。こちらも毒気があります~。(HPには左のブックマークから入ってください)
(薪能葵上のシリーズはこれで終了です)