蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

怨霊と聖、ひの薪能の葵上をみて 1

2008年10月05日 | 小説
ひの薪能(一〇月四日、日野市中央公園で)に行ってきました。
今年が源氏物語千年記念となるので葵上を上演。シテに金春流世家の金春安明氏、ワキツレ地謡方など多数の出演。

内容の紹介と言っても私自身、観能することは滅多になく、たまの機会でもちんぷんかんぷんなのでざっとあらすじだけ。それと怨霊、霊の招致と鎮魂について「部族民」的考察と思ってください。
さてあらすじ、葵上の題目ですが葵上は出ません。病に伏せっている代身として舞台の前部に小袖が置かれている。主役シテは六条の御息所の怨霊。巫女の奏でる梓弓の弦に引き寄せられ、「いかなる者と思し召す、これは六条の御息所の怨霊なるぞ」と自己紹介する。陪臣は大変だ怨霊の魂を鎮めないとで、行者=聖(ひじり)が呼ばれる。聖の祈祷が怨霊の恨みに勝って、しずしずと引き上げる。という霊魂対祈りの対決話です。

この怨霊は生き霊です。六条の御息所は往時の勢い落ちるとはいえ自負心たかい女御。しかし源氏の正妻を葵上にとられた嫉妬と、車あらそい(牛車がかち合ってしまった)で受けた屈辱が重なって、生き怨霊となって葵上を苦しめていた。
怨霊の恨みを表すのが、面の「泥眼」。この面は増女(ぞうおんな)風の女面にほつれ毛を強調させ眼と歯を金泥に塗っている。正面からみるとほつれ毛と金眼は尋常ではない。後半は憤怒を現す般若に替わります。
それとシテの謡いかた、独特の節回し、少し(音程)くるわせているのではないかと思えます。それに発声が独特で、波が浮き上がるように伸び、影の様にかすれて消える。宗家の独壇場でした。(他の舞台を見て比較している訳でないので評論ではありません)

生き霊対聖の対決。ではこの聖とはというと「横川の小聖」とあります。横川とは比叡山のこと、比叡山で密教修行を積んだ修験道の行者のことです。源氏物語の背景の十世紀後半には聖として修行中の「山の聖」、修行を終え貴顕、衆人に加持祈祷を施す「市の聖」が定着していたようです。時代は世阿弥よりかなり前ですが空也上人は市の聖と呼ばれました。空也におくれて行円上人が「横川の聖」と呼ばれました。山の聖が市の聖におりて功徳を重ね尊敬を受ける、これは源氏物語時期よりも300年以上後の世阿弥時代の風俗ですね。時代背景から[横川の小聖]とは円仁の流れにある天台密教行者かと思います。

さて霊と祈りへの部族民考察きで。

ブックマーク(左下)のHP版部族民通信もよろしく、イザナギ好評です。


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