蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

怨霊と聖、ひの薪能の葵上を見て 2

2008年10月06日 | 小説
源氏物語の葵と比較してみると。世阿弥の葵上は、
1 梓弓を奏でて霊をよびよせる
2 霊が自身を「六条の御息所」なるぞと自己紹介
3 聖がよばれて霊を密教の祈祷で調伏させる
4 霊が怒りを鎮めて退散する
これが能の葵上です。ここまであげればあらすじそのものと言ってよい。すなわち世阿弥が作品として創造した骨子、すべてがこの骨組みに入っている。そこであらためて手元の源氏物語を開けると(与謝野晶子訳、河出書房)ななんと;

1 梓弓での降霊なんて出てこな~ぃ。密教の僧の祈祷で呼びつけて、このヤローとねじ伏せるが源氏の時代。
2 霊が自己紹介なんて場面はありません。葵にとりついたはずのいくつかの霊は「叡山の座主」の折伏で退散したのですが、引き剥がせない霊が葵を悩ませていた。人々があれだけしつこいのはヤッパ「六条の御息所」なんじゃないのと噂していた。
3 横川の聖が呼ばれて出張調伏(今でいう往診)したなんて下りもありません。ここで叡山の座主と横川の聖とをかけ離れた別ものと考えます。
4 最後まで離れなかった霊が何かは(源氏以外)は分からずに、葵は産後に死んで、鳥部のへの野辺送り、火葬、骨拾いまで詳しく書かれています。

源氏以外には知られずというところがこの葵のクライマックスだと私(Tribesman=部族民)はおもいます。というのは;
法華経の読経の中で源氏と夫人(葵)が対面する。このときは密教の強力な祈祷をすると葵自身がつらいので(薬が強すぎる自分も持たない)、祈祷を取りやめてしずかな法華経に素読に移った(効き目は弱いが気分は安定)。几帳の垂れ絹を引き上げて、源氏が葵の伏す病床にすすむ。妻の手を取って「悲しいじゃありませんか。私をこんな目にあわせて」と言うと、葵は泣くばかりであった。そのあと

♪ 嘆きわび空に乱るる我が魂を 結び止めてよしたがひの褄 ♪ と歌う。

それはこの場、夫婦での会話にはふさわしくない不吉な歌であったが、そのとおり葵の顔が六条の御息所になっていたのである。源氏は「あさましかった-中略-これまで源氏が(六条の御息所の生き霊ではない)と否定してきたことが眼前に事実となって」現れているのである。
今風にいうと
自慢の美人妻が産院で苦しんでいる、見舞いに言った夫が目の前にみた妻の顔はかつて彼が捨てた愛人に変身していた。先日も妻がベンツ(Sタイプ高級)で外出したら、先方からBMW(1シリーズ安物)に乗った彼女が憤怒の顔して見返していた、こんな諍い話を聞いた。そのかつての愛人が妻に乗り移っちゃった、こんな感じですか。個人的には(くやしいー)こうした経験がないのですが、このときはあの日和見の源氏でさえ「世の中が嫌になった」。私はここが源氏物語を理解する上でも重要ともいます。
ではなぜ世阿弥は換骨奪胎して、霊対祈りに矮小化したのか。その分析は次回に続く。

HP版の部族民通信もビジットしてください。左下のブックマークです。イザナギの姉婚(あねたはけ=近親相姦)の詩は絶好調です。
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