這龍図三所物 (鍔の歴史)
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這龍図三所物 後藤光乗
後藤宗家四代光乗。姿引き締まって鞭のようにしなやかでしかも張力と強さが感じられる。丸みのある胴体のうねるような様子に動きがあり、緊張感に満ちている。このような作があることによって、光乗が初代に次ぐ技量の持ち主であると評価されている。同図の笄で別の作例も併せて鑑賞されたい。いずれも赤銅魚子地に金高彫据紋。三所物は十四代揃いの内の一。
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這龍図笄 後藤光乗
後藤光乗の時代は戦乱も激しく、後藤宗家の社会的な存在感は途切れかかったとも言える。足利家に仕えていた三代乗真が死んで以降、しばらく都を離れざるを得なかったことが影響している。乗真の次男で光乗の実弟の元乗が独立して信長に仕えていたため、十年ほど後、その尽力で京に戻ることが許される。以降、信長、秀吉と時代の為政者に仕えた。実は光乗の子で五代目を継いだ徳乗も同様の経験をしている。祖父乗真の死後は光乗と行動を共にし、後に信長、秀吉に仕えていたが、秀吉が没して徳川家が権力を得て以降は自ら謹慎し、しばらく不遇の時代を送らざるを得なかった。後、家康に仕えていた徳乗の弟の長乗などの尽力で許され、徳川家の御用を勤めることとなる。
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這龍図三所物 後藤光乗
後藤宗家四代光乗。姿引き締まって鞭のようにしなやかでしかも張力と強さが感じられる。丸みのある胴体のうねるような様子に動きがあり、緊張感に満ちている。このような作があることによって、光乗が初代に次ぐ技量の持ち主であると評価されている。同図の笄で別の作例も併せて鑑賞されたい。いずれも赤銅魚子地に金高彫据紋。三所物は十四代揃いの内の一。
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這龍図笄 後藤光乗
後藤光乗の時代は戦乱も激しく、後藤宗家の社会的な存在感は途切れかかったとも言える。足利家に仕えていた三代乗真が死んで以降、しばらく都を離れざるを得なかったことが影響している。乗真の次男で光乗の実弟の元乗が独立して信長に仕えていたため、十年ほど後、その尽力で京に戻ることが許される。以降、信長、秀吉と時代の為政者に仕えた。実は光乗の子で五代目を継いだ徳乗も同様の経験をしている。祖父乗真の死後は光乗と行動を共にし、後に信長、秀吉に仕えていたが、秀吉が没して徳川家が権力を得て以降は自ら謹慎し、しばらく不遇の時代を送らざるを得なかった。後、家康に仕えていた徳乗の弟の長乗などの尽力で許され、徳川家の御用を勤めることとなる。